静まりの時 民数記11・21~23
日付:2023年09月07日(木)
しかしモーセは言った。
「私と一緒にいる民は、徒歩の男子だけで六十万人です。しかもあなたは、彼らに肉を与え、一か月の間食べさせる、と言われます。彼らのために羊の群れ、牛の群れが屠られても、それは彼らに十分でしょうか。彼らのために海の魚が全部集められても、彼らに十分でしょうか。」
主はモーセに答えられた。
「この主の手が短いというのか。わたしのことばが実現するかどうかは、今に分かる。」
(民数記11・21~23)
イスラエルの民はエジプトで奴隷状態でした。主はその奴隷状態から民を解放されました。民は新しい約束の地に向かいます。しかしその途上、民は主に向かって繰り返し激しく不平を言いました。
「さて、民は主に対して、繰り返し激しく不平を言った」(民数記11・1)。
主は不平を言う民に向かって怒りを燃やされますが、しかし食べ物がないという民には、マナやうずらを降らせて下さいました。モーセは指導者として、主に向かっては民を代表し、民に向かっては主の言葉を伝える、という状況の中に置かれています。板挟みのような状態です。
「私一人で、この民全体を負うことはできません。私には重すぎます。私をこのように扱われるのなら、お願いです、どうか私を殺してください。これ以上、私を悲惨な目にあわせないでください」(14,15)。
板挟み状態の苦しみ。この苦しみは、責任のある立場に置かれた者が大なり小なり経験することではないか、と思います。一方の主張だけに耳を傾けていれば楽なのです。しかし世界はこの苦しみを担おうとする人たちによって保たれているように思います。
モーセは心に浮かんだ心配をそのまま神さまに祈ります。その都度神さまは答えて下さいました。その答えの一つが次の言葉です。
「この主の手が短いというのか。わたしのことばが実現するかどうかは、今に分かる」(23)。
今に分かる。今に分かるから、しばらく様子を見ていなさい、ということでしょう。神さまが間もなくその御手を述べて御業をなさる。モーセはただ待ち続けることを強いられます。
昨日テレビ番組で「ネガティブ・ケイパビリティ」について放送していました。「分からないものを分からないまま、宙ぶらりんにして、耐え抜く能力」とネットには説明がありました。もやもやした中に、時を過ごす、ということでしょうか。信仰に生きる、ということは、神さまへの信頼に生きる、ということですから、あまりにも性急な解決を求めることから自由にしていただいています。