ああ、わが主よ、どうかほかの人を遣わしてください

静まりの時 出エジプト4・10~13
日付:2023年09月06日(水)

10 モーセは主に言った。「ああ、わが主よ、私はことばの人ではありません。以前からそうでしたし、あなたがしもべに語られてからもそうです。私は口が重く、舌が重いのです。」
11 主は彼に言われた。「人に口をつけたのはだれか。だれが口をきけなくし、耳をふさぎ、目を開け、また閉ざすのか。それは、わたし、主ではないか。
12 今、行け。わたしがあなたの口とともにあって、あなたが語るべきことを教える。」
13 すると彼は言った。「ああ、わが主よ、どうかほかの人を遣わしてください。」
(出エジプト4・10~13)

 モーセはミディアンの祭司でしゅうとのイテロに仕え羊を飼っています。ある時、いつものように羊の群れを導いていると、神の山ホレブにやって来ました。そこで主に出会います。主はモーセに語られました。「今、行け。わたしは、あなたをファラオのもとに遣わす」。新聖歌では440番におさめられている「エジプトに住める」(Go Down Moses)を思い起こします。モーセは奴隷となっているイスラエルの民をエジプトから解放するリーダーとして神さまによって召されました。
 ここからモーセの抵抗が始まります。

モーセは神に言った。「私は、いったい何者なのでしょう。ファラオのもとに行き、イスラエルの子らをエジプトから導き出さなければならないとは。」(3・11)

モーセは神に言った。「今、私がイスラエルの子らのところに行き、『あなたがたの父祖の神が、あなたがたのもとに私を遣わされた』と言えば、彼らは『その名は何か』と私に聞くでしょう。私は彼らに何と答えればよいのでしょうか。」(3・13)

モーセは答えた。「ですが、彼らは私の言うことを信じず、私の声に耳を傾けないでしょう。むしろ、『主はあなたに現れなかった』と言うでしょう。」(4・1)

そして今朝の言葉

モーセは主に言った。「ああ、わが主よ、私はことばの人ではありません。以前からそうでしたし、あなたがしもべに語られてからもそうです。私は口が重く、舌が重いのです。」(10)

 それでも神さまは、諦めずモーセを導かれます。しかしとうとうモーセは言いました。

「ああ、わが主よ、どうかほかの人を遣わしてください。」(13)

 しかし神さまは諦められません。脅迫ともとれるようなことばをもって(4・22,23)でモーセを屈服させられました。押し切られたのです。

 伝道者として召される、御言葉の奉仕に立つということは、この神さまに「押し切られる」ということによって可能となることなのかもしれません。
 例えば職業の場合、その人物の適性や能力といったものが評価され、適切に選択していくということ、そして本人がその職業に対して積極的である、好みである、やってみたい気持ちがある、という意欲が必要でしょう。押し切る、というようなことが起こるとすれば、それは本人が職場に対してすることでしょう。
 もし職場のほうが、本人の意向に関わらず、どうしてもわが社に来てください、ということであれば、よほどの人材不足か、本人にたぐいまれな能力がある、ということだと思います。

 しかし神さまがモーセを召されたのには、人材不足があったわけではありません。神さまは石ころからでもアブラハムの子孫を起こすことのできるお方です。またモーセにたぐいまれな能力があったということでもないと思います。モーセは、確かに王子でありユダヤ人である、という得難い背景を持ってはいますが、今は自らの犯した罪の陰におびえはるか遠くに逃げてきて羊飼いをしています。話す能力においても優れているとは言えません。しかし神さまはそのモーセを召されました。そしてモーセ本人がかたくなに拒むのにもかかわらず、解放者として召されたのです。

 嫌がる本人を、しかし神さまがご自分の御言葉を語る者として召される。このような経験は、こののちの預言者たち、そして新約聖書に登場する使徒たちに共通することです。

 神さまの御言葉を語る、ということは、まさに神さまの御言葉をまっすぐに語るということですから、その人物は「通り良き管」(新聖歌392)でなければなりません。通り良き管でなくなってしまうのは、何かが詰まっていて神さまの言葉をまっすぐに通さなくなっているということでしょう。
 このまっすぐに通さなくなってしまう「何か」とは。

 ある設計士さんは、良い大工さんに家を建てていただくことは大切なことでありがたいことであるが、あまりにも器用な大工さんは、設計士の意図とは関係なしに自分でどんどん作っていってしまい、ちょっと困ったことになることもある、と言っておられました。確かに設計士さんの考えよりも、大工さんがその経験の中で培われた技術で作っていただいた方が現実的でよいと思えるものができるような気もします。しかしやはり設計士さんの考えておられることは、微に入り細に入り、実際生活してみてとても考え抜かれたものなのです。
 人間も賜物や経験が豊かで、意欲にあふれすぎていると、自分の思いで何もかもやってしまうのです。一般的な職業の場合はそれでも良いことがあるかもしれません。しかし伝道者は違うのです。伝道者は、通り良き管となるために、どれだけ自分が「空っぽであるか」が問われるのです。

 本当に神さまのお心を伝えていく、ということは、この空っぽである、自分の何かが取り除かれている、ということが大切なのです。自分には能力がない、ふさわしくない、ということが、単なる謙遜ではなく、真実に告白されている人だけが、良い伝道者として神さまの良いお働きをすることができるのです。