あなたの重荷を主にゆだねよ

静まりの時 詩篇55・15~22
日付:2023年09月05日(火)

あなたの重荷を主にゆだねよ。
主があなたを支えてくださる。
主は決して
正しい者が揺るがされるようにはなさらない。
(詩篇55・22)

 ダビデのマスキール。ダビデは「敵の叫びと悪者の迫害」(3)の中にあって「悲嘆に暮れ、泣き叫んで」います。この苦しみを、ここで重荷という言葉で言い現し、それを神さまに委ねよ、と祈っています。

 「敵の叫ぶと悪者の迫害」。ここでダビデの語る敵とは誰のことなのか。

「まことに 私をそしっているのは敵ではない。それなら私は忍ぶことができる。私に向かって高ぶっているのは 私を憎む者ではない。それなら私は身を隠すことができる。それはおまえ。私の同輩 私の友 私の親友のおまえなのだ。私たちは ともに親しく交わり にぎわいの中 神の家に一緒に歩いて行ったのに。」
(12~14)

 ここでの敵とは、本来は「同輩、友、親友」であった存在です。それがいまや敵となって、私を苦しめているのだ、といいます。その苦しみを、重荷と言い現し、その重荷を神さまに委ねよ、と祈っているのです。

 今私たちにとっての敵とはいったいどのような存在なのか。社会の中で、明らかに敵対する存在は、敵と想定しやすいかもしれませんが、このダビデの言葉を思いめぐらすならば、家族や友人、知人、あるいは信仰の仲間といった、本来なら愛の交わりの中にあるべき存在が、自らを苦しめる存在となっている、ということでしょう。
 愛の反対は憎しみではなく無関心であると言われます。本来愛の関係でないところには、憎しみも生まれにくいのかもしれません。親しい人間関係だからこそ、そこに憎しみも起こってくる、ということなのでしょう。
 愛がないことが問題なのではないのです。あると思っている愛が、ゆがんでしまっている、ということが問題なのです。愛がいたずらな執着になっていたり、自己中心的な奪うだけの愛になっていたり、つまり不健康な愛であることが、問題なのです。

 この重荷を主に委ねよ、とダビデは祈っています。
 委ねることは手から離すことです。神さまの御手に委ねるのです。握りしめている手を開き、神さまの御手の中に委ねてしまうのです。

 「あなたの重荷」。この「あなた」とは、この詩篇を詠ったダビデ自身のことでしょう。自分のことを「あなた」と二人称で呼びかけているのです。私、という存在はどこまでも私に一番距離が近い存在ですが、その私から少し距離を取っているのでしょう。私から距離を取ること。大切なことです。祈るということは、そういうことを私たちに得させるのかもしれません。私に最も近い存在は、私ではなく、神さまであることを発見する、取り戻すとき、それが祈りです。
 そしてその距離を取った私に向かって「委ねよ」と語りかけ、さらに「主があなたを支えてくださる。主は決して 正しい者が揺るがされるようにはなさらない」と語りかけるのです。
 私に向かって語りかけること。それは私の「親」になることかもしれません。子どもは、成長していくうえで、親から庇護を受け、躾けられ、成長していきます。子どもは親のもとで安心して生きることができます。しかしいつか親は子どもから離れ、子どもは自立していきます。親がいなくなる、ということですが、それは自分自身が親となる、ということでもあります。自分が自分の親となって、健やかに生きることができるように、自分を導いていくのです。しっかり頑張ろうと自分で自分を励ますことができるのは、自立していることなのだと思いますが、それだけではなく、やりすぎてしまっている自分を休ませようとしたり、自分の力では到底難しいと思えるところでは、他の誰かに助けてくれ、ということができるということも自立しているからこそできることだと思います。

 「主は決して 正しい者が揺るがされるようにはなさらない」。神さまは義でああり善であり、愛である。この神さまがいてくださるから大丈夫だ、と自らに語りかけています。

 それしても、正しい者が揺るがされるようにはなさらない、という言葉は本当に私の慰めになるのでしょうか。この言葉が私の慰めになるためには、私という存在が「正しい者」であるということが前提とされなければなりません。私は本当に正しい者なのでしょうか。

 先日の主日礼拝説教で語られたように、自前の礼服で勝負しようとしている、すなわち自分で自分の義を成り立たせようとしているならば、誰一人正しいと言えるものはいないでしょう。しかし私たちは、王からの支給品の礼服、すなわちイエスさまの義によって生きる者とされました。私たちは義とされた、正しい者とされたのです。