幼子たちに現してくださいました

静まりの時 マタイ11・25~30
日付:2023年09月04日(月)

そのとき、イエスはこう言われた。
「天地の主であられる父よ、あなたをほめたたえます。あなたはこれらのことを、知恵ある者や賢い者には隠して、幼子たちに現してくださいました。そうです、父よ、これはみこころにかなったことでした。」
(マタイ11・25~26)

 福音は、知恵ある者や賢い者には隠されている。福音は、幼子たちにこそ現わされている。イエスさまはそう語られました。
 福音を知ろうとすれば、幼子でなければならない。知恵ある者や賢い者であっては知ることができない、というのです。知恵がある、賢い、ということが邪魔をして、福音が見えない。福音を知り、福音に生きようとするならば、知恵や賢さを捨てて、幼子のようにならなければならないのです。

 どのような者が知恵ある者、賢い者なのか。私は知恵ある者なのか、賢い者なのか。謙遜をもって私は知恵ある者ではない、賢い者ではない、とは言えるかもしれませんが、しかし誰かから、あなたは本当に知恵のない人ですね、愚かな人ですね、と言われると、カチンとくる、ということも事実かもしれません。心の底では、自分は知恵ある者である、賢い者である、ということを思っている、あるいは、そのように認められることを求めているのかもしれません。

 幼子であること。イエスさまはここで、知恵がないも者、賢くない者に福音は明らかにされる、と言われたのではなく、幼子に現された、と言われました。知恵が深く、賢い人の中にも幼子はおられます。逆に知恵がなく、賢くない人の中にも、幼子になっていない人がおられます。幼子である、とはどういうことでしょう。

「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(28)

 続いて語られた言葉は、良く引用される言葉だともいます。重荷をイエスさまのもとに降ろすこと。
 幼子である、ということは、重荷をイエスさまのもとに降ろすことができる人、かもしれません。自分で知恵ある者、賢い者であると思っている人は、自分でその重荷を担い続けてしまいます。幼子にならないと、イエスさまのもとに重荷を下ろすことがなかなかできないのではないか。

 様々な事情で降ろすことができなくなっている重荷を担っているとすれば、一度幼子になってそれをイエスさまのもとに降ろしてみればよいのだと思います。

「わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」(29,30)

 イエスさまのもとに重荷を下ろし、そうしてあらためて、イエスさまの御手からくびき、重荷をいただく。そのくびきを負う。そこにたましいの安らぎがあるのです。
 もしかすると、降ろした重荷とイエスさまからいただいたくびき(重荷)は客観的には同じものかもしれません。しかしイエスさまの御手からいただいた重荷であるならば、担いきれないはずはありません。まことの平安をいただく道が始まります。