イエスは群衆が自分の周りにいるのを見て、弟子たちに向こう岸に渡るように命じられた

静まりの時 マタイ8・18~22
日付:2023年09月02日(土)

18 さて、イエスは群衆が自分の周りにいるのを見て、弟子たちに向こう岸に渡るように命じられた。
19 そこに一人の律法学者が来て言った。「先生。あなたがどこに行かれても、私はついて行きます。」
20 イエスは彼に言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕するところもありません。」
21 また、別の一人の弟子がイエスに言った。「主よ。まず行って父を葬ることをお許しください。」
22 ところが、イエスは彼に言われた。「わたしに従って来なさい。死人たちに、彼ら自身の死人たちを葬らせなさい。」
(マタイ8・18~22)

 「群衆が自分の周りにいるのを見て」。新共同訳では「自分を取り囲んでいる群衆を見て」。協会訳口語訳では「群衆が自分のまわりに群がっているのを見て」。
 取り囲んでいる、群がっている、という言葉には、すこし否定的な雰囲気が込められているような気がします。この個所の前の16,17節には、イエスさまが大勢の人たちの必要に答えて下さったことが記されています。ですから決して群衆から遠ざかろうとしておられるのではないと思います。しかし弟子たちは神ではありません。人間です。限界があります。イエスさまは弟子たちの中に、休息の必要を見て取られたのでしょう。弟子たちに向こう岸に渡るように命じられました。
 休息をとるようにとの命令。これもイエスさまの弟子にとっては、神さまからの大切な命令です。群衆は、それぞれの必要のままに求めたことでしょう。それにすべて答えることができるのだろうか。あるいはできなければならないのだろうか。過労死ラインを越えてひたすら奉仕する、ということがキリストの弟子としての道なのだろうか。
 牧師のメンタルな問題はなかなか顧みられないところがありますが大切なことです。教会は、その歴史の中で著名な牧師の中に自殺者を出してきました。牧師だけではなく、牧師の伴侶や家族にもそのストレスの中で精神に不調が起こる、自ら命を絶つということが起こります。牧会生活では、牧会活動の中でではありますが、いくつもの精神科の病院に出かけることになります。そんな中で自分自身のメンタルな問題を相談したくなることもないわけではありません。
 「向こう岸に渡る」。まことの休息を得るために、向こう岸に渡ることが必要なのです。向こう岸とはどこか、というのは問題ですが、一概には言えないことかもしれません。自らに休息を与えることが、神さまからの命令であることを知っていたいと思います。
 神学校で共に学んだ方が、あるとき祈祷会をずる休みして、阪神タイガースの応援に行ったそうです。彼にとっては甲子園は「向こう岸」だったのでしょうか。少なからず後ろ暗い気持ちを抱きながら帰路についたのですが、向こうの方から、お~い、○○君、と声が聞こえてきます。見ると神学校の大先輩で奉仕生活も中堅に張っている牧師が、メガホンなど阪神グッズを身につけて、おまえも来てたんか、と晴れやかに声をかけてくださったそうです。この大先輩にとっても甲子園は「向こう岸」だったのでしょうか。

 さてそこに一人の律法学者がやって来て、「先生。あなたがどこに行かれても、私はついて行きます」と言いました。それに対してイエスさまは「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕するところもありません」と言われました。
 人の子、すなわち私には枕するところもない、ゆっくりとくつろぐところもない、という意味でしょう。イエスさまがどこに行かれてもついて行く、という律法学者にたいして、私には枕するところもないが、それでもついてくるか、あなたも枕するところがないような人生を歩むか? と問われたようなことです。
 しかしこの解釈は、先の、向こう岸へ行け、と言われたことと少し矛盾します。ですから、ここは、キリストの弟子となって枕するところもない生活に献身したいと思うと主張する律法学者に対して、枕するところがないという生活は人の子がすることである、あなたはただ従って来ればよい、時に向こう岸へ渡れと命じられれば、それに従っていればよい、私が枕するところのない生活を引き受けている、と理解すべきかもしれません。

 次にもう一人の人がやって来ました。今度は「弟子」の一人です。「主よ。まず行って父を葬ることをお許しください。」
 身内に不幸が出たので、まずその葬り、お葬式をしてからイエスさまに従っていきます、と言いました。忌引きという休みがあります。特別休暇の一つです。労働者にはたいてい保証されていますし、校園でも認められていることです。父が死んだので葬式をすませてから従っていきます、と言ったのです。当たり前のことだと思います。
 ところが、イエスさまは彼に言われました。「わたしに従って来なさい。死人たちに、彼ら自身の死人たちを葬らせなさい。」
 簡単にいうと、放っておきなさい、ともとれるようなことばです。これは一体どういうことでしょう。どう理解すればよいのでしょうか。献身すれば、親の死に目にも会えない、ということを言っているのでしょうか。それくらいの覚悟を持て、ということでしょうか。あるいは、死者に関わるということを、否定的に考えよ、ということでしょうか。ずいぶん昔ですが、キリスト者になってからは、他宗教の葬儀に出席しないようにしている、と言った人がいましたが、そういうことをイエスさまは言われているのでしょうか。

 キリスト教の葬儀は、悲しみの中にも希望があります。信仰者の死は、天国への約束が確かにあるので希望があるのですが、それだけではなく、たとえ信仰者でない方の葬儀であっても、また受け入れがたいような状況の死であっても、キリスト教式での葬儀には希望があると思います。なぜなら、キリスト教の葬儀では、死はすでに最終的な力を持ったものではないことが明らかにされます。またいのちは神さまのものであり、私たち人間が左右するものではなく、ただ神さまに委ねるべきものであることが明らかにされるので、希望があるのです。いのちの源であるイエスさまが、その葬儀の中心にいてくださるので、希望があるのです。ですからキリスト教の葬儀では、会場設営の中心は故人ではなくイエスさまとなるように工夫がされています。参列者は、死は悲しみであり受け入れがたいことだけれども、死んで復活されたイエスさまがすべての中心におられるのだから、あんじょうしてくださるに違いない、と平安をいただくことができるのです。故人がりっぱな信仰者だったから希望のある葬儀となり、そうでない故人であれば希望がない葬儀となる、ということでは、キリスト教の葬儀ではありません。

 先の弟子に対するイエスさまの言葉は厳しいようですが、葬りにおいてイエスさまが中心でないならば、いのちがない、希望がない、ということを語られたのだと思います。
 ですから、この弟子としては、「イエスさま、父が死にました、これから一緒に葬儀をしていただけませんか」、というべきだったのではないかと思います。葬りを済ませてからイエスさまに従う、というのではなく、今この時点からイエスさまに従って、まず葬りからイエスさまのリーダーシップの中で行います、というべきだったのではないかと思います。
 イエスさまに従う、という場合、これについては従うけれども、あれについては、こちらでやっておきます、というのは、イエスさまに従う、ということではないのです。イエスさまに従う、ということは、どんなことでも、イエスさまが主となってくださる、ということを大切にする、ということなのです。