それで私もまた、この子を主におゆだねいたします

静まりの時 第一サムエル1・23b~28
日付:2023年08月29日(火)

 ハンナは言った。
 「ああ、祭司様。あなたは生きておられます。祭司様。私はかつて、ここであなたのそばに立って、主に祈った女です。この子のことを、私は祈ったのです。主は私がお願いしたとおり、私の願いをかなえてくださいました。それで私もまた、この子を主におゆだねいたします。この子は一生涯、主にゆだねられたものです。」
 こうして彼らはそこで主を礼拝した。
(第一サムエル1・26~28)

 「ハンナには子がいなかった」(2)。この悲しみは、さらにペニンナによって苛立ち、怒りとなりました(6,7)。夫エルカナは、理解のある夫なのですが、ハンナの悲しみを慰める言葉を持っていません(8)。しかし神さまはハンナの祈りを聞いてくださいました。「主は彼女を心に留められた」(19)。果してハンナは男の子を出産し、男の子はサムエルと名付けられました(20)。
 さてその子が乳離れをしたとき、ハンナはその子がまだ幼かったのにもかかわらず主の家に連れて行きました。そしてその子を主に献げました。その時の祈りが今朝の聖句です。

 「この子を主におゆだねいたします」。以前の訳では「この子を主にお渡しいたします」、協会訳口語訳では「この子を主にささげます」。

 ささげることは、お渡しすることであり、お委ねすることです。

 子どもを身ごもることができず与えられない悲しみの末に、主に祈ってかなえられ与えられたのです。その与えられた子を捧げる、お渡しする、お委ねする、というのです。いったいどういうことでしょう。祈って与えられたのだから、それを自分の手の中にしっかりと握りしめることが通常のことではないでしょうか。
 子どもを身ごもり出産することができない悲しみがあったのです。その悲しみが解消されました。これからはペニンナからもいじめられることがなくなりました。それでもはや与えられた子には用がなくなったというのでしょうか。そうではないと思います。むしろ大切なものだからこそ、主にささげた、自分の手から離した、ということでしょう。

 「そのころ、主のことばはまれにしかなく、幻も示されなかった」(3・1)。

 神の国が停滞しているかに見える状況。世界の状況は深刻です。そこに神さまは一つの奇跡を起こし、力強く神の国を前進させようとしておられる。それがサムエル記が語ろうしていることです。その最重要人物のサムエルが育つところは、主の家以外には考えられないのではないでしょうか。ハンナは図らずもサムエルを主の家にお委ねするのです。そこに神さまの御手があります。ハンナは、みことばが与えられなくなってしまった世界に救いをもたらす「幼な子」を、ここでささげるのです。

 ハンナは祈りました。「主は私がお願いしたとおり、私の願いをかなえてくださいました。それで私もまた、この子を主におゆだねいたします。この子は一生涯、主にゆだねられたものです」。私が主にお委ねしたので、その見返りとして、神さまはこの子を与えて下さった、とは祈りません。神さまが祈りに答えてくださったので、この子を神さまに委ねます、と祈ります。委ねること、献げることは、感謝の現れなのです。この方向性は大切です。捧げることによって祝福が与えられる、祈りが答えられるという考え方はは、かつて経済に窮した教会が行ってしまった贖宥状(免罪符)の考え方と同じでしょう。改革者たちはそれを厳しく否定しました。

 ハンナはすでに祈りにおいてこのように祈っています。

「万軍の主よ。もし、あなたがはしための苦しみをご覧になり、私を心に留め、このはしためを忘れず、男の子を下さるなら、私はその子を一生の間、主にお渡しします。そしてその子の頭にかみそりを当てません。」(1・11)

 与えて下さい、与えて下さるなら、それを私の手から放し主にお渡しします、と祈っているのです。不思議な祈りです。ないから与えて下さいと祈っているのに、いざ与えられたなら、それを主に委ねます、捧げます、と祈っているのです。そうしてその祈りの通りに、与えられた男の子サムエルを、まだ幼かったにも関わらず主の家にお渡しました。

 子どもは授かりものである、という感覚。そこには、子が生まれることは、人間の手を超えたものである、という畏れみたいなものが込められているのだと思います。また授かったとしても、その後も、子どもは親の所有物ではないという感覚は大切なのだと思います。物であれば所有するという言葉は可能となるかもしれませんが、それが人格を持つ存在であるかぎり、所有、という言葉は不可能です。それを所有物のように支配しコントロールしようとすると、結局破壊することになります。
 そこで、預かりもの、という感覚はどこか大切なことではないかと思います。いつか必ず、神さまにお渡しする、お委ねする存在なのです。ハンナは早い段階で、その選択をしたことになります。

 ただ、子どもの自立は大切なことですが、「はい、お父さん、ここにサインしてね、鉛筆ではなくて油性ボールペンで、ここですよ~」と婚姻届けを持ってこられたという経験を何度かした者にとっては少し寂しいことでもあります・・・。9月はちょっとそれで出かけることになりました。