主があなたがたを愛されたから

静まりの時 申命記7・6~8
日付:2023年08月28日(月)

6 あなたは、あなたの神、主の聖なる民だからである。あなたの神、主は地の面のあらゆる民の中からあなたを選んで、ご自分の宝の民とされた。
7 主があなたがたを慕い、あなたがたを選ばれたのは、あなたがたがどの民よりも数が多かったからではない。事実あなたがたは、あらゆる民のうちで最も数が少なかった。
8 しかし、主があなたがたを愛されたから、またあなたがたの父祖たちに誓った誓いを守られたから、主は力強い御手をもってあなたがたを導き出し、奴隷の家から、エジプトの王ファラオの手からあなたを贖い出されたのである。
(申命記7・6~8)

 神さまがイスラエルを選ばれたことの最初は、アブラハム(アブラム)の選びにあると思いますが、そのことが鮮明になった出来事が出エジプトなのだと思います。
 神さまはエジプトの地で奴隷であったイスラエルの民を導き出してくださいました。そのリーダーとして立てられたのがモーセです。そのモーセの説教がおさめられたのが申命記です。

「これは、モーセがイスラエルのすべての民に告げたことばである。」(申命記1・1)

 モーセはイスラエルの民に向かって語りました。イスラエルは神さまの聖なる民である、地の面のあらゆる民の中からイスラエルを選ばれた、そうしてご自分の宝の民とされた、それがイスラエルであると、モーセは語りました。
 そこで、あらためてイスラエルを神さまが選んでくださった理由が語られました。どうしてイスラエルが選ばれることになったのか。

 まず語られたのが、「あなたがたがどの民よりも数が多かったからではない」。数が多いということは文字通り民の人口が多い、という意味ですが、そこには象徴的な意味も含まれていると思います。優れている、立派である、神さまに忠実である、良い業を成した、美しい、などなど。おおよそ秀でているという意味が象徴的に含まれていると思います。しかしそういうことが選びの理由ではない、と語られました。そして念を押すように「事実あなたがたは、あらゆる民のうちで最も数が少なかった」。ここにも象徴的な意味が含まれていると考えてよいでしょう。この世界から見れば取るに足らないものであった、選ぶとすればむしろ避けるべきものであった、というのです。
 しかしそれでもあえて選ばれたのは、

「主があなたがたを愛されたから、またあなたがたの父祖たちに誓った誓いを守られたから、主は力強い御手をもってあなたがたを導き出し、奴隷の家から、エジプトの王ファラオの手からあなたを贖い出されたのである。」

 主がイスラエルを愛されたこと、主がイスラエルの先祖に誓われた誓いを守ろうとされたこと、それが理由である、というのです。今目の前にいるイスラエルの中には一切理由がない、ということです。

 神さまが愛された、という理由。イスラエルには愛されるべき材料は何一つありません。しかし神さまが愛されたということ。ここに神さまの愛というのは一体なんであるか、ということが明らかにされていると思います。神さまの愛には、私たちの側に理由がないのです。あるいは神さまが愛される理由は、神さまのうちにしかない、神さまの外側にはないのです。
 私たちが誰かを愛する場合、多くの場合そこに理由があります。容姿が端麗である、力強い、賢い、成績優秀である、足が速い(笑)、などなど。しかしそれらは、いつか失われるものです。いつか失われるものが根拠になっている愛であるならば、その根拠がなくなれば愛もなくなってしまう。そんな愛である場合が多いでしょう。しかしそれでは私たちは生きていくことができません。社会は成り立ちません。どこか理由のない愛、あるいは理由を超えた愛、理屈を超えた愛が私たちには必要です。ときにカップルの愛、親子の会いには、その片鱗があると思います。なお不完全ではありますが、理屈を超えた愛があると思います。
 神さまはそのような愛でイスラエルを、そして私たちを愛してくださっています。

「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」(第一ヨハネ4・10)

 また、神さまがイスラエルを愛された理由は、「あなたがたの父祖たちに誓った誓いを守られたから」といいます。神さまがイスラエルの父祖たちに誓われたという出来事は、すでにこの時点で数百年も前のことです。神さまはそのことをお忘れにならないということでしょう。あるいは、過去の出来事、というものは、時間に縛られている私たち人間にとっては、変化する可能性のないもの、となっています。その変化しないものが、神さまの愛の理由となっている、ということかもしれません。

「あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命しました。」(ヨハネ15・16a)

 このような神さまの愛、選びのうえに

「それは、あなたがたが行って実を結び、その実が残るようになるため、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものをすべて、父が与えてくださるようになるためです。」(ヨハネ15・16b)

 良い実を結ぶ人生が築かれるのです。

 条件付きの愛、理由のある愛でしか愛されていないとするならば、良い実を結ぶ人生を歩むことができません。神さまを信じるということは、神さまの愛を信じるということです。神さまの無条件の愛を信じるということです。それは、無条件の愛、一方的な愛、で愛されている自分である、ということを受けいれることでもあります。神さまを信じることは、自分を正しく愛することなのです。もう自分が愛されるべき存在であるということを証明しなければならない人生からは解放されましょう。自分が有用な人間であり、重要な人物であるといことを印象づけなければならない焦り、明らかにしなければならない戦いから解放されましょう。私たちは一人ひとりが、そのままで、決して変わることのない神さまの愛の中に生かされているのです。

そこにあなたがいてくださることは

                                                                                    野呂昶(のろ さかん)

そこにあなたがいてくださることは
なんとすてきなことだろう
庭で木の実が 小さな音をたてて落ちた
風が窓をたたいて 通り過ぎていった
そんなことが嬉しい

いつものように顔を洗う音
廊下を歩く足音
そんなことが嬉しい

あなたが部屋で本を本でいる
なにか書きものをしている
そんな気配が嬉しい

月の光に花壇のバラがふるえている
遠くで虫の音がする
そこにあなたがいてくださることは
なんとすてきなことだろう

(野呂昶、『愛の詩集 5 薔薇のかおりの夕ぐれ』、てらいんく、2006年発行、80頁f)

素敵な詩に出会いました。