静まりの時 出エジプト15・12~16
日付:2023年08月30日(水)
12 あなたが右の手を伸ばされると、
地は彼らを吞み込んだ。
13 あなたが贖われたこの民を、
あなたは恵みをもって導き、
御力をもって、
あなたの聖なる住まいに伴われた。
14 もろもろの民は聞いて震え、
ペリシテの住民も、もだえ苦しんだ。
15 そのとき、エドムの首長らは、おじ惑い、
モアブの有力者たちを震えが襲い、
カナンの住民の心はみな溶け去った。
16 恐怖と戦慄が彼らに臨み、
あなたの偉大な御腕により、
彼らは石のように黙った。
主よ、あなたの民が通り過ぎるまで。
あなたが買い取られた民が通り過ぎるまで。
(出エジプト15・12~16)
「あなたが贖われたこの民を、あなたは恵みをもって導き、御力をもって、あなたの聖なる住まいに伴われた。」(13)
神さまは、私たち贖われた者を「恵みをもって」導いてくださいます。そして御力をもって、神さまの「聖なる住まい」に伴ってくださいます。そこで私たちはまことの安息をいただきます。
導き方もいろいろあるかと思いますが、神さまは「恵み」をもって導いてくださいます。恵みをもって導くのが、神さまの導き方である、ということでしょう。この恵みと訳されている言葉は、他の訳では「慈しみ」。元のヘブル語の単語には「良いこと、善、誠実、いつくしみ」という意味があるそうです。
まことの安息に導かれるためには手段を択ばない、というのではなく、手段も同じくらい大切である、ということでしょう。恵み、慈しみ、誠実、善をもって導かれて、そうして安息に入れていただくのです。
救われる、ということは、神さまの「聖なる住まいに」住むことですが、そこには神さまが伴ってくださいます。神さまが伴って下さらなければ、どのようなところであっても、「聖なる住まい」とはなりません。この伴うと訳されている言葉には、導く、休ませるという意味があるようです。神さまがともにいてくださるからこそ、私たちは安息をいただくのです。
「聖」という言葉は、神さまのものである、という意味ですが、文字通り聖である、聖いということでしょう。救われるということは、聖いところに住まわせられる、ということなのです。それはまた贖われた者は、聖められる者でもある、ということでしょう。
「ここでは、アンセルムスの真珠のたとえを思い起こすことが適切な理解の助けとなるだろう。アンセルムスによれば、不正を行い、神の道に背く者は、神の公義を傷つけ、宇宙の道徳的秩序と美を乱し、神関係をも他者関係をも危うくしてしまう((アンセルムス「神はなぜ人となられたか」『アンセルムス全集』古田暁訳、聖文舎、1980年、479頁)。もし神が不正を見過ごしにされるなら、神は被造世界の秩序に無責任であることになり、世界は永遠に不正と邪悪のはびこる混乱に陥ることになるだろう。ある人が貴重な真珠を奪われ、泥の中に捨てられてしまった。後でそれを拾い上げ、汚れたまま洗わずに清潔な場所に戻すとすれば、それは賢い人だろうか。むしろ洗い清めて保管するだろう。そのように神も罪の泥で汚れた人間を、まったく洗い清めずに、償いなしで元に戻すことはなさらないのである(同前495頁)。被造世界を罪と腐敗の浸食から守ろうとする決意の中に、公義としての神の栄誉が存している。」
(芳賀力、「第17章 神の国という究極のビジョン 四 世界史の雑草 【ノート200】最後の審判」『神学の小径5』、キリスト新聞社、2023年、383頁f)
聖化に生きようとしない、という信仰者は、神を「無責任な方」にしてしまっていることかもしれません。
聖化されるということについて。
「私たちはみな、善であれ悪であれ、それぞれ肉体においてした行いに応じて報いを受けるために、キリストのさばきの座の前に現れなければならないのです。」(第二コリント5・10)
義とされた者は、さばかれない、ということではなく、義とされた者も、やがての時にさばかれるのだ、と読むことのできる聖句だと思います。義人はいないのですから、私たちはその行いによって義と認められることはありません。ただイエスさまの十字架と復活によって贖われるのです。贖われた私たちは、もはやその行いによって断罪されることはありません。しかし最後の審判において「報いを受けること」は必至である、ということでしょう。イエスさまを信じて罪赦されたのだから、何をしていても大丈夫、という言い方もできるかもしれませんが、しかし、この報いの時に備えていく、という生き方が始まったということを忘れてはならないのだと思います。聖化される、ということは、キリスト者すべての生き方なのです。
しかしこの聖化される、ということにおいても、人間は自力で聖化の道を歩むのではありません。そもそも罪赦された罪びとでしかない私たちです。一方的な神さまの愛によって罪を赦していただいた者が、少しぐらいよいことをしたところでいったいどんな報いをいただくことができるのか。例えば何十人もの人の命を奪い、強盗を働き、多くの人に苦しみと絶望を与えてきた者がいたとして、その人物がただ一方的に赦していただきました。その赦しをいただいた者が、赤信号を守りました、報いを下さい、と胸を張って主張されたとすれば、私たちはどんな報酬をその人物に渡して上げるのがふさわしいでしょうか。そもそも、報いを下さい、などと主張することに、大きな疑問を抱くのではないでしょうか。どんなに大きいと見える善行を行ったところで、自らを罪人の頭であると知っている者は、ただ「私たちは取るに足りないしもべです。なすべきことをしただけです」(ルカ17・10)というのではないかと思います。
そもそも善行といっても、それが果たして善行であるのかどうか、を私たち罪びとは知らないはずなのです。人間のなすことは、一つ良い面があれば必ずその逆もあるのです。それを知らずに、私は善を行った、などと言えるのは、自分を知らないか世界を知らないかのどちらかでしょう。滑稽なことです。
「そこで私たちは、こう告白することができる。『私は恵みによって義とされた者として、自分の悪しき行為が焼き尽くされることに承服できるし、それどころか、〔神の栄光の〕お役に立たないものなど取り壊されてしまうように望まざるをえない』と。要するに、『めいめい行ったことに応じて』の行ないとは、ただキリストの恵みにまったく身を委ねきる信仰のことである。」
(前掲書、387頁)
「ただキリストの恵みにまったく身を委ねる信仰のこと」。それがキリスト者のなすべき行いであり聖化への道、最後の審判の時の報いの評価基準なのです。
「すると、彼らはイエスに言った。『神のわざを行うためには、何をすべきでしょうか。』イエスは答えられた。『神が遣わした者をあなたがたが信じること、それが神のわざです。』」(ヨハネ6・28,29)