静まりの時 第一ペテロ5・8~11
日付:2023年08月26日(土)
8 身を慎み、目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、吼えたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。
9 堅く信仰に立って、この悪魔に対抗しなさい。ご存じのように、世界中で、あなたがたの兄弟たちが同じ苦難を通ってきているのです。
10 あらゆる恵みに満ちた神、すなわち、あなたがたをキリストにあって永遠の栄光の中に招き入れてくださった神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦しみの後で回復させ、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます。
11 どうか、神のご支配が世々限りなくありますように。アーメン。
(第一ペテロ5・8~11)
信仰生活はどこか闘いのようなところがあります。信仰を理解しない人たちの中で信仰の道を貫こうとする戦いもあるかもしれませんが、それ以上に、自分の罪との闘い、自分中心に生きようとする古い性質との闘いがあります。救われた、すなわち義と認められたとしても、地上に生きる限り、なお罪びとであることに変わりはありません。人間には、救われた罪びとか、救われていない罪びとかの二種類だけがいるのです。救われた罪びとは、この「自分の罪との闘い」を必ず経験します。
これをペテロは「あなたがたの敵である悪魔が、吼えたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています」と言いました。私たちが悪魔に対して戦いを挑むのではありません。悪魔のほうが私たちに戦いを挑んでくるのです。罪の誘惑の中にある時、それは自分自身の「隙」における闘いですが、それはまた悪魔がその「隙」につけ入ってこようとしていることとの闘いでもある、ということでしょう。
このような信仰生活を送る私たちに向かって二つの命令が語られてました。一つは「身を慎み、目を覚ましていなさい」。もう一つは「堅く信仰に立って、この悪魔に対抗しなさい」。
身を慎むことと対抗すること。具体的にどうすることなのでしょうか。
身を慎むこと。すなわち自分を治め、自制すること。それは人間には難しいことでしょう。御霊によって結ばれる実です。神さまによってなされる信仰の業、聖めです。ですからこの自分という戦場において、神さまが豊かに、そして自由にお働きになることができるようにすることが大切でしょう。自分の力で身を慎もうとすると、頑なな人、になってしまうだけですが、神さまにたよって身を慎もうとする人は、柔和な人になっていきます。
対抗すること。共同訳2018では「信仰をしっかりと保ち、悪魔に立ち向かいなさい」。戦いを仕掛けてくる悪魔に対抗するのは、立ち向かうことである、攻撃は最大の防御であるということでしょう。対抗する、立ち向かうというのは、信仰に堅く立つということです。信仰をしっかりと保つということ。これも身を慎むことと同じように、自分の握力で信仰を保つことは人間には不可能のことでしょう。御霊の働きによって成していただくことです。
ですから、今朝の個所の前節に「 あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです」(7)とあるように、神さまにいっさいをゆだねることが、身を慎むことであり、堅く信仰に立つことなのです。悪魔に立ち向かうことなのです。
それは、礼拝生活を大切にすることです。また日々聖書に親しみ、祈りの生活をすることです。静かに神さまに心を向ける、留めることこそ、身を慎むことであり、悪魔に立ち向かうことなのです。忙しく立ち働くことは、この闘いから逃げていることです。信仰のよい戦いを闘うことは、静かに神さまの前に座すことなのです。
「ご存じのように、世界中で、あなたがたの兄弟たちが同じ苦難を通ってきているのです」。
この信仰の闘いは、自分だけが闘っている戦いのではありません。二千年の教会に生きた兄弟姉妹がみな経験したことです。いまも世界にいる兄弟姉妹たちが闘っている戦いです。またこれから生まれる信仰者たちが闘っていく戦いです。私たちは一人ではありません。
「あらゆる恵みに満ちた神、すなわち、あなたがたをキリストにあって永遠の栄光の中に招き入れてくださった神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦しみの後で回復させ、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます」。
信仰の闘いにおける苦しみは「しばらく」である、といいます。その後「回復させ、堅く立たせ、強くし、不動の者」としてくださるのです。苦しみは、不動の者とされる途上の一時期のことなのです。
「どうか、神のご支配が世々限りなくありますように。アーメン」。
神さまの支配は、すでにこの世界に豊かにあるのです。しかし同時に、いまだその支配が完成していないという状況の中にもあります。私たちはこの「すでに」と「いまだ」の間、中間期に生きています。完全な支配がやってくる再臨を、終末を待ち望んでいます。待ち望みつつ、今この時にすでに神さまのご支配がはじまっていることを見ています。
「幕間のインテルメッツォ(間奏曲)
311 A・マクグラスは『キリスト教の天国』の中で、イギリスの神学者ジョン・ストットの逸話を紹介する。一人の男がいた。その男は道に五ドル紙幣が落ちているのを見つけ、その時からいつでも下を見ながら歩くようになった。
312 彼は何年もそうやって、二万九千五百十六個のボタンと、五万四千百七十二個のピンと、十二セントを集め、曲がった腰と卑しい性格を身につけた。
313 しかし彼は、陽の光のきらめきも、星の輝きも、友達の笑顔も、春の花も見ることができなかった。何しろ彼の目はどぶに注がれていたのだから。
314 ストットは言う。「それと似たキリスト者が多すぎます!」身につまされる話。私たちは目先の現実だけに目を注ぐのではなく、超越したものに憧れの目線を向ける者でありたい。」
(芳賀力、『神学の小径5』、キリスト新聞社、2023年、365頁f)