どんな時にも、どんな場合にも

静まりの時 第二テサロニケ3・16~18
日付:2023年08月25日(金)

16 どうか、平和の主ご自身が、どんな時にも、どんな場合にも、あなたがたに平和を与えてくださいますように。どうか、主があなたがたすべてとともにいてくださいますように。
17 私パウロが自分の手であいさつを記します。これは、私のどの手紙にもあるしるしです。このように私は書くのです。
18 私たちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがたすべてとともにありますように。
(第二テサロニケ3・16~18)

「どうか、平和の主ご自身が、どんな時にも、どんな場合にも、あなたがたに平和を与えてくださいますように。どうか、主があなたがたすべてとともにいてくださいますように。」(16)

 平和は、神さまが与えて下さるものなのです。
 イエスさまは山上の説教の中で「平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです」(マタイ5・9)と言われました。平和はたしかに「つくる」ものでもあります。戦争のところに平和を築くために私たちは労することが大切です。しかし人間がその知恵と努力でつくる平和には、どこか不完全さをもっています。神さまが与えて下さるものである。神さまが与えて下さる平和こそ本当の平和である。人間が作ろうとする平和にはどこか欠けがある、ということをわきまえていたいと思います。
 平和を作る努力を惜しむことなく、同時に神さまが必ず平和を与えて下さると信じ待ち望んでいたいと思います。

 「どんな時にも、どんな場合にも」。人間がつくる平和は、戦いのない環境をつくるということかもしれません。しかし神さまが与えて下さる平和は、どのような時にも、どのような場合にも、与えて下さる平和です。戦いの中にも与えられる平和。艱難の中にも存在する平和。それが神さまが与えてくださる平和です。

「わたしはあなたがたに平安を残します。わたしの平安を与えます。わたしは、世が与えるのと同じようには与えません。あなたがたは心を騒がせてはなりません。ひるんではなりません。」(ヨハネ14・27)
「これらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を得るためです。世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました。」(ヨハネ16・33)

 イエスさまの与えて下さる平和、平安は、いついかなる時も与えてくださる平和であり平安なのです。イエスさまを信じる信仰に生きる、ということは、この何があっても失われることのない平和、平安のなかに生きることです。
 戦いの中にも与えられる平和、平安。その根拠は、イエスさまがともにいてくださることにあります。この本当の平和、平安に生きているか、生かされているかが明らかになるのは、戦いの中にあるときでしょう。戦いのない平安な状況のなかにあって、平和で平安だ、イエスさまがともにいてくださる、感謝、ということはたやすいことでしょう。
 人生に問題が起こる、病気になる、経済的に困窮する。そのような中にもイエスさまがともにいてくださると聖書は語るのです。そのような中にあっても平安に生きることができる、というのです。あるいはそういう中にあってこそ平安に生きることができる。それがイエスさまを信じる者の生き方だ、というのです。

「私パウロが自分の手であいさつを記します。これは、私のどの手紙にもあるしるしです。このように私は書くのです。」(17)

 パウロの手紙の多くにあるように、この手紙にもパウロの自筆「証書」が書かれています。しかしこの第二テサロニケにはそれが少し丁寧に書かれていると言われます。

「さて兄弟たち。私たちの主イエス・キリストの来臨と、私たちが主のみもとに集められることに関して、あなたがたにお願いします。霊によってであれ、ことばによってであれ、私たちから出たかのような手紙によってであれ、主の日がすでに来たかのように言われるのを聞いても、すぐに落ち着きを失ったり、心を騒がせたりしないでください。どんな手段によっても、だれにもだまされてはいけません。まず背教が起こり、不法の者、すなわち滅びの子が現れなければ、主の日は来ないのです。」(第二テサロニケ2・1~3)

 ここに記されていることは、パウロの手紙であると「かたる」(騙る)手紙が、テサロニケの教会に届き、それによって「騙される」人が出て来た。それによって教会が混乱した、平安がなくなった、平和がなくなった、ということでしょう。それで、念を押すように、この手紙は確かにパウロの書いたものですよ、と言い添えたのだと思います。

 「主の日がすでに来たかのように」主張する人たちがいた、もう終わりの日が来たのだから、日常の業務は後回しにしようという人たちがいた、そうして地に足のつかないような生き方をし始めてしまった人たちがいた、ということでしょう。それを、さも教会の教えであるかのように流布する人たちがいた、ということでしょう。

 少し話は変わりますが、神学校では、教義学と歴史神学をセットで教えられました。教義学、組織神学というと、さまざまな教理が体系的に構築されている学問です。しかしそれは、たとえば新しい電化製品のマニュアルのように、すでに完成されたものが明らかにされている説明書のようなものではありません。教会の歴史の中で、その時々の歴史的な出来事の中で必要に迫られて考察され、議論され、形づくられてきたものです。エポックメーキング、と教えられました。ですから教理は歴史と切り離すことができないのです。
 それらは、聖書において明らかにされていることではないか、といいますが、実際聖書の解釈も歴史の中でさまざまに変化した部分を持っています。そもそも聖書自体も、教会の中で書かれたものです。また聖書の「原典(親筆書)」というものは存在していません。多くの写本から「校訂本」が作成され、それが各国語に翻訳されています。私たちは、校訂本をもとにして訳された翻訳聖書を読んでいるのです。各国の言葉も時代と共に変化していきます。翻訳聖書もまた変化していきます。ですから聖書も、しっかりとした「教理」を土台にして読んでいかないと間違った読み方をしてしまう場合があるのです。
 その教理も、一つの時代の中で生まれてきたものである、ということをわきまえ知りつつ、もっとも根本的な教えである「信条」をたよりに、聖書を読み、そうして信仰に生きることが可能となるのです。誤解を恐れずに言うならば、私たちは教理を信頼しているのでも、聖書を信頼しているのでもなく、人格をお持ちのまことの神であるイエスさまを信じ信頼しているのです。イエスさまを信じるために聖書を読むのですが、しかしイエスさまを信じて聖書を読むことでなければ聖書の扉は固く閉ざされたままです。

 テサロニケの教会に流布した偽のパウロの手紙によって引き起こされた極端な再臨信仰による現実逃避。それが正統なキリスト教信仰と似て非なるものであることをどのようにして知ることができるのか。判断することができるのか。それは、きちんとした教義学ときちんとした歴史神学、そして聖書神学、実践神学といったバランスの良い神学の研鑽を、主イエスさまへの祈りと主イエスさまの身体である教会に対する謙遜をもちつつ、そして落ち着いた礼拝生活、教会生活を送るなかでそれらを学び訓練されることによって培われるものだと思います。