静まりの時 イザヤ書5・1~7
日付:2023年08月02日(水)
万軍の主のぶどう畑はイスラエルの家。
ユダの人は、主が喜んで植えたもの。
主は公正を望まれた。しかし見よ、流血。
正義を望まれた。しかし見よ、悲鳴。
(イザヤ書5・7)
神さまは、万事を整えてぶどうの木を植えられました。良いぶどうの実ができるのを心待ちにしておられたところ、酸いぶどうの実ができてしまいました。これと同じように、神さまはイスラエルを選び、約束の地に住まわせてくださいました。世界を祝福するための神の民としての役割に生きるようにと住まわせてくださいました。世界に公正をもたらし正義を築くようにと。しかしイスラエルには流血と悲鳴ばかりが聞こえてくる国となってしまいました。このイスラエルに対して神さまは裁きを行われました。その裁きとは「わたしはこれを滅びるままにしておく」(6)という裁きでした。神さまはイスラエルを守ることなく滅びるに任せられました。バビロン捕囚はこのような神さまの裁きの結果である、と聖書は語るのだと思います。
神さまを第一にしないと、裁かれる、裁きに会う、ということと、神さまを第一にしないと、滅びるしかない、ということと、似ているようで微妙に違うような気がします。神さまを第一にしないと、裁かれる、というのは、神さまを第一にしない民のところに神さまは乗り込んでいかれて鉄槌を下される、という感じです。それに対して、神さまを第一にしないと、滅びるしかない、というのは、神さまを第一にしない歩みは、神さまが直接手を下されなくても、自然と滅びに向かってしまうのだ、という感じです。
いずれにせよこれが真理だとすると、私たちはあわてて神さまを第一にしようと心するのではないかと思います。それはそれで大切なことだと思います。
ただ、神さまを第一にしないと、神さま御自身が私の人生に乗り込んでこられて裁きを下されると聞いて、神さまを第一にしようというのは、どこか神さまに対する恐怖心に駆り立てられているところがあると思います。
また、神さまを第一にしないと、その人生は滅びるしかない、神さまが直接手を下されなくても流血と悲鳴の人生になってしまう、というのを聞いて神さまを第一にしようというのは、神さまへの恐れというよりも、おなかを出して寝ていると風邪をひくみたいな感じで、神さまが造られた自然法則への恐れ、あるいは運命や宿命といったものへの恐れのような感じもします。
キリスト教信仰において神さまを第一にするという心は、このような神さまや運命に対する恐怖心によって生まれることなのでしょうか。
イエスさまはこれとよく似たたとえを話されました。ある人がぶどう園を造って万事を整えて農夫たちに貸した。収穫の時が近づいたのでこの主人は収穫を受け取ろうとしてしもべたちを遣わしたところ、農夫たちはそのしもべをことごとく傷つけて返してしまった。悪い農夫のたとえ話です(マタイ21・33~)。
この主人は言います。「『私の息子なら敬ってくれるだろう』と言って、息子を彼らのところに遣わした」。私はこれはおかしいと思うのです。遣わしたしもべたちがことごとく傷つけられて返された、そんな農夫の所に大切な自分の息子を遣わすでしょうか。おまけに「私の息子なら敬ってくれるだろう」などと、どこまでも農夫たちに対して楽観的というか、そこに善の心を見出そうとしている。なんとのんきな、世間知らずで現実を知らない人であろうか、ということではないでしょうか。
しかしこれが神である、ここに神の心が現れているとイエスさまは紹介してくださったのだと思います。どこまでも私たち人間に善を期待しておられる神。人間の可能性をあきらめない神。それが聖書の神さまなのだと思います。もちろんこのイエスさまのたとえ話も、最後には滅びが語られていると思います。しかしイエスさまが人類に紹介しようとされた神さまとは、このようにどこまでも愛である神さまだったのだと思います。
そうすると、私たちが神さまを第一にしようとするのは、最初に考えたような恐怖心からではなく、どんなに罪を犯してもあきらめすに愛そうとしてくださる神さまの、その愛に答えたい、ということから神さまを第一にする、ということではないかと思います。ここにキリスト教会が語ってきた、なぜ神さまを第一にするのか、ということの大切な理由があると思います。
キリスト教信仰は、恐怖心からではく、また運命や宿命への恐れでもなく、神さまの深い愛に対する応答として、神さまを愛することを語ってきました。そして神さまを愛することが、公正を愛し正義を大切にする心を生み出し育んでいくと信じて来たのです。「そんなことしてたら神さんがばちをあてはるで~」というのはキリスト教会の語る言葉ではありません。キリスト教会の語る言葉は、「それでも神さまはあなたや私のことをあきらめずに愛していてくださるのです」です。
私たちの信仰生活は、一口に言えば神さまを愛するということです。信仰生活の営みのすべての土台は深い神さまの愛に答えて神さまを愛するということなのです。ですから私たちはどんなに神さまが私を愛していてくださるのか、ということだけを学んでいればよいのだと思います。