私を放っておいてくださらないのですか

静まりの時 ヨブ記7・17~21
日付:2023年08月01日(火)

17 人とは何ものなのでしょう。
  あなたがこれを尊び、これに心を留められるとは。
18 朝ごとにこれを訪れ、
  その都度これを試されるとは。
19 いつまで
  私から目をそらしてくださらないのですか。
  唾を飲み込む間も、
  私を放っておいてくださらないのですか。
20 私が罪ある者だとしても、
  人を見張るあなたに、私は何ができるでしょう。
  どうしてあなたは、私を標的とされるのですか。
  私は、自らを重荷としなければならないのですか。
21 どうして、あなたは私の背きを赦さず、
  私の咎を取り去ってくださらないのですか。
  私が今も、ちりに横たわらなければならないとは。
  あなたが私を捜しても、私はもういません。
(ヨブ7・17~21)

 友人の一人テマン人エリファズの弁論に対するヨブの答え。ヨブはエリファズへの答えとして語り始めましたが、友人に向かう言葉は、最後には神さまへの祈りとなりました。

 友人は、ヨブの身に起こった不幸は、ヨブの犯した罪に対する神さまのさばきである、と語りました。しかしヨブには思い当たることがありません。それがヨブにとってのさらなる苦しみを生みました。
 しかしヨブは、自らに思い当たる罪はない、潔白である、といって自らの正義を主張しているのでもないようです。
 ヨブの苦しみを整理すると以下のようではないか、と思います。

・神さまは正しい裁きをなさるお方である。
・人生に起こる苦しみは、人間の罪に対する神さまからの罰である。
・今回ヨブの身に苦しみが起こった。
・ということは、ヨブが罪が罪を犯したことになる。
・しかし、ヨブには思い当たることがない。

 ここで、一つの解決の道としては、最初の「神さまは正しい裁きをなさるお方である」という命題を反故にすればよいのです。神さまは不正な方である、気分のままに人間に裁きをなさる自分勝手な暴君である、とすれば、罪のない自分に起こっている苦しみの原因にひとまず解決をすることが出来ます。
 あるいは、神さまはいない、という解決もあるかもしれません。この世には正しい裁きをなさる神がおられると思っていたけれども、結局人生に起こることはすべて偶然の寄せ集めであり、起こることに意味などない。善に生きても苦しみに会うこともあり、悪に生きても裁きになど会わないのだ、として生きる道もあるでしょう。

 しかしヨブにはそれができません。ヨブにとっては、神さまは疑うことなどみじんもできないほどリアルなお方であり、かつ、どこまでも正しいお方なのです。ヨブは神さまを無視できないのです。寝ても覚めても自分に関わってこられる神さまの存在が消えないのです。

「私を放っておいてくださらないのですか」。「私が罪ある者だとしても、人を見張るあなたに、私は何ができるでしょう」。

 正義である神さまを信じているからこその苦しみ。それがヨブの苦しみなのです。そしてヨブに関わり続けられる神さまの前にヨブは自分が無力であることを見せつけられています。

 苦しみに出会わなかったときには、どこか神さまの前に胸を張って生きていることの自負、矜持みたいなものがあったかもしれません。しかし今は無力で、ただ惨めです。

 神義論は終末論との結びつきの中で解決に向かうのだと思いますが、それはそうとして、この無力で惨めな状態というのは、否定的な面ばかりではないように思います。

 自分からは何も成すことが出来ない。ただ無力と知識の限界に成すすべがない、ということ。そこでこそ真実の神さまに出会う、そして真実の自分に出会う、ということが起こるのかもしれません。自らの行動は、自分の本当の姿を隠す隠れ蓑のようなものとなり、それは神さまをも見えなくさせてしまうものかもしれません。

 昨日は教会学校のデーキャンプが行われました。楽しく一日を終えることが出来ました。天候も少し雲もあり、カンカン照りではなく過ごしやすかったです。キャンプサイトは木漏れ日の中にあり、タープも持参したのですが使うことになりませんでした。賛美、祈り、聖書のお話、透明な水が流れる川での水遊び、木漏れ日の中でのカレーライス、芝生でのアイスクリーム作り、教会に帰ってのスイカ割り、閉会式と楽しく過ごしました。川遊び、遊具での遊び、アイスクリーム作りでのボール投げで、体のことを忘れて少しはしゃぎすぎてしまいました。