しかし、ノアは主の心にかなっていた

静まりの時 創世記6・5~8
日付:2023年07月31日(月)

 主は、地上に人の悪が増大し、その心に図ることがみな、いつも悪に傾くのをご覧になった。それで主は、地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた。
 そして主は言われた。「わたしが創造した人を地の面から消し去ろう。人をはじめ、家畜や這うもの、空の鳥に至るまで。わたしは、これらを造ったことを悔やむ。」
 しかし、ノアは主の心にかなっていた。
(創世記6・5~8)

 「その心に図ることがみな、いつも悪に傾く」。心は、ころころと動くのでこころというのだ、と誰かが言われたのを聞いたことがあります。大地にしっかり根を下ろし強風が吹いても微動だにしない大木のようなものではなく、さまざまに傾く平板のうえにおかれた球体のように、平板の微妙な傾きをダイレクトに反映して、あちらこちらと動き回る、それが人間の心だというのです。確かにそのようなものだと思います。
 しかしそれだけではなく、「いつも悪に傾く」のだ、といいます。悪に傾いてしまう、悪のバイアスがかかっている、たとえ人間が最大限に善を傾けたと思っていても、そこにも悪のバイアスがかかっているというのです。
 神さまは人間を創造したことを悔やみ、その心を痛められました。

 神さまがご自分の行為について悔やんでおられる、後悔しておられる、といいます。そしてその心を痛めておられる、というのです。これは少し不思議なことです。神さまは全知全能であり、何事においても瑕疵がないはずです。しかしここでご自身の御業について後悔しておられる。それは神さまが義、すなわち正しいお方であると同時に、愛なるお方であるからでしょう。愛は一方通行ではなく、どちらかの独断ではありません。自由な意思決定が愛を支えています。愛である、ということは、そこに後悔が生まれる可能性を秘めている、ということでしょう。

 人間が心に図ることはいつも悪に傾いてしまう。それを常に自覚し押しとどめていなければならないと思ます。あるいは私が善と思っていても、その中には必ず悪に傾く要素を秘めている、ということをわきまえていなければなりません。それが人間として健やかに生きる道だと思います。

 人間の図ることがいつも悪に傾いてしまうのをご覧になられた神さまは、人間を滅ぼす、というまことに重たい決断をされました。しかしすべての人間がそうであったのか。滅ぼされなければならないものであったのか。ただ一人主の目にかなっていた人がいました。奇跡の人、それがノアです。

 ノアは、「主の目にかなっていた」と聖書は語ります。神さまの期待されるような生き方がそこにあった、ということでしょう。ノアは、こののち洪水の兆しが全く見えない中に箱舟を建造します。それはただひたすら神さまのお言葉に従おうとしたことによります。自らの中に箱舟をつくってみたいという願いがあったわけではなく、また箱舟をつくることが理屈にかなっていることだ、とか、そういう人間的な一切の理由からではなく、ただ神さまのお言葉に従おうとしたノア。そこに神さまのご期待される人間像があったということでしょう。

 この「主の目にかなっていた」と訳されている言葉は、新共同訳では「ノアは主の好意を得た」、共同訳2018では「ノアは主の目に適う者であった」と訳されています。直訳では「主の目に恵みを見出した」とあります(新改訳聖書、欄外注)。主がノアをご覧になられて、そのノアの内にご自身のお心を大切にする心があるのを発見された、という風に訳されるところですが、直訳的には、ノアのほうが、神さまを見上げて、そこに恵みを発見した、という意味のようです。
 主の目にかなう者、というのは、主の目に恵みを見出す者である、ともいえるのかもしれません。主のお言葉に従おうとする者は、たしかに主の目の中に恵みを見出していることでしょう。主の目の中に恵みを見出さずして、主のお言葉に従うということは、人間には不可能でしょう。あるいはたとえ御言葉に従ったといっても、神さまの愛に促されての行為とは言えないでしょう。

 神さまの目に恵みを見出すこと。私たち人間が心に図ることはいつも悪に傾くのです。ですから誰かの目を見ても、そして神さまの目を見ても、そこに恵みを見出すよりも、その逆のものを見出してしまうのかもしれません。だからこそ、神さまの目を見上げて、そこに恵みを見出すことが出来たノアは、確かに奇跡の人だったのでしょう。

 しかしペテロは、「あなたの言っていることは分からない」と言った。するとすぐ、彼がまだ話しているうちに、鶏が鳴いた。
 主は振り向いてペテロを見つめられた。ペテロは、「今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言います」と言われた主のことばを思い出した。
 そして、外に出て行って、激しく泣いた。
(ルカ22・60~62)

 ペテロは、振り向いて見つめてくださった主の御目の中に何を見出したのでしょうか。確かに恵みを見出したに違いありません。ペテロもやがて主の目にかなったものとしての新しい一歩を踏み出します。