静まりの時 第一ヨハネ2・28~3・3
日付:2023年07月29日(土)
キリストにこの望みを置いている者はみな、キリストが清い方であるように、自分を清くします。
(3・3)
「キリストにこの望みを置いている者」。それはイエスさまを信じるすべての者であるはるはずですが、わざわざこのように書くのには、イエスさまを信じてはいるが、その信仰生活がどうもキリストに望みを置ているように見えない者がある、ということかもしれません。キリストに望みを置いていないということは、何の望みも持っていないということではなく、キリスト以外に望みを置いているということでしょう。しかしキリスト以外のものはみな空虚なのですから、望みそのものも空虚なものでしょう。望みを置くというときに、その望みが確かなものであるために、望みの土台となっているものが確かなものでなければならないでしょう。
「この望み」とは、前節の「キリストに似た者となる」ということでしょう。イエスさまを信じた時から、キリスト者はすべて、キリストに似た者となるという目当てをいただいています。例外はありません。もしキリストに似た者となるという目当てを持っていないとすれば、それはキリスト者ではありません。キリストを信じてはいるけれども、キリストに似た者となることはちょっと・・・ということであれば、それはキリストを信じてはいないのです。
キリストに似た者となる、その目当てに向かって、必ず私もそのようにしていただけると希望をもって生きている、イエスさまがそのようにしてくださると望みを持っている者は、すべて「キリストが清いお方であるように、自分自身を清くします」。
清くする、ということばは、神のものとなる、という意味を持っています。倫理道徳的な清さというよりも、神さまに属する者となるということです。もちろん倫理道徳的な清さは大切ですが、それだけを語っているのではない、ということです。
倫理道徳的に清さに生きたとしても、依然神さまのものとなっていない。神さまのものとなっていない、ということは、自分のものとなっている、自分の所有物から一歩も外に出ていない、ということも、人間には起こります。
逆に、神さまのものとなっているならば、多少は倫理道徳的に逸脱していても許容範囲なのか。そうではありません。もちろん人間は完全な清さに生きることはできませんが、かといってそれをよしとして、開き直っているとすれば、そもそも神さまのものとなっていないということでしょう。開き直るということは、自分のものであり続けているということです。本当に神さまのものとなっているならば、清くない自分が少しでも清くなるようにとの闘いを経験するはずです。
自分を清くするための闘いを経験している。自分を神さまのものとする闘い、自分を自分のものではない、とする闘いを経験している。それが健やかなキリスト者生活なのだと思います。