わたしは彼らの上に牧者たちを立てて、彼らを牧させる

静まりの時 エレミヤ23・1~8
日付:2023年08月03日(木)

わたしは彼らの上に牧者たちを立てて、彼らを牧させる。彼らは二度と恐れることなく、おびえることなく、失われることもない──主のことば。
(エレミヤ23・4)

 捕囚の苦しみの向こうに「その時代」がやってくるとエレミヤは語りました。その時代とは、救いの時代、平安の時代です。かつてエジプトの地から上らせた神は、いまも生きて働いておられ、捕囚によって散らされたイスラエルの家の末裔を再び集めてくださる神である、そのことが明らかにされる時代です。
 その時代が来ることを信じて、希望をもって、いまの苦しみの時を忍耐しようとエレミヤは呼びかけています。

 聖書の語る平和、平安、そしてそのような救いは、「彼らの上に牧者たちを立てて、彼らを牧させる」ということで実現する神さまの御業であるといいます。民が平安の中にあるためには、この牧者たちの「牧会」のなかにある、ということが必要となります。それぞれの羊が、それぞれの思いの中で、自分勝手に生きようとすることによって平和や平安が生まれるのではありません。神さまがお立てになった牧者たちの牧会の中に自らを置く、ということで生まれる平和や平安なのです。国に例えるとすると、共和制ではなく君主制である、ということでしょうか。あまりたとえが良くないので心に浮かぶイメージが正確ではないと思いますが。
 キリスト者である、ということは、自分が王であった自己中心から、イエスさまが王となってくださるイエスさま中心になった、ということです。私たちは、人生に王をいただいた、主人をいただいたのです。暗やみの中を自分の力のみに頼って生きる生き方から、全てをご存じのお方が私の手を握っていてくださる、その御手を頼りに生きる者へと変えられました。

 人間は神さまに造られた尊い存在であり、それぞれが大切にされ尊重されなければなりません。しかしみんな違いを持っていますので、ともに生きようとすると、意見が対立しする場面が生まれます。そこでは、声の大きい人の意見が通ったり、それによって誰かが我慢をしたり、ということも起こります。結果的に、それぞれが大切にされてはいないのではないか、と思えるようなことも起こります。できるだけ民主的にことを進めて行こうとして、その民主的ということが、多数派の暴力のようなことを生み出し、少数意見が無視されてしまう、ということも起こります。結局、罪びとである人間の集まりなので、どうしても完璧な集団、個人が大切にされ、集う全ての人が自由であり続けられるような交わりは、難しいのかもしれません。
 そういう中で厄介なのは、自分の意見を押し通そうとするあまり、これは神さまの御心です!、と言ってしまうことです。信仰の群れですから、神さまを持ち出されたらもうそれ以上議論は不可能になってしまいます。自分の願望が、神の御心として語られてしまうこと。これは聖書の語る偶像礼拝です。牧師も例外ではありません。むしろ牧師こそ容易くこの偶像礼拝に陥ってしまうものではないか、と思います。
 教会の交わりが守られるためには、そこに牧者であるイエスさまがおられることを忘れないことだと思います。イエスさまは、良い牧者であり、羊のためにいのちを捨てることも辞さないお方です。実際十字架の上で、私たちの罪を背負っていのちを捧げてくださいました。このお方が、私たちの牧者であること、を忘れないのです。
 「わたしは彼らの上に牧者たちを立てて、彼らを牧させる」。ただ絶対君主のような存在がある、ということではなく、私たち一人ひとりのために十字架に架かられた方が、その交わりの中におられるということを忘れない、ということです。私が座っている席の隣に、手と足に釘の跡がのこっているイエスさまがお座りになっている、ということを忘れないのです。
 このことを忘れない人は、いくら正しいと思える意見でも控えめに話すことが出来ます。間違っても、神さまの御心です!、などと言い張ることはしないでしょう。私のために血を流された方が隣にお座りになっておられるのですから。もし集うすべての者が、このイエスさまの臨在のリアリティーに生きているならば、交わりは豊かに守られるのではないかと思います。「彼らは二度と恐れることなく、おびえることなく、失われることもない」という交わりに近づくことが出来るのではないでしょうか。

 カトリック教会では、整体を前にして、あるいは囲んで黙想するときがあるそうです。プロテスタントは、これを簡単に偶像だ、と言ってしまうかもしれませんが、まことにイエスさまのリアリティーを感じることではないかとも思います。今度の日曜日は聖餐式を行いますが、主の臨在のリアリティーを大切にしたいと思います。

 月曜日の教会学校キャンプで少々はしゃぎすぎたと書きましたが、ここにきて疲れからかちょっとしんどい朝を迎えています。小さいころから野洲川や琵琶湖に連れて行ってもらったことからか、わりあい小学校低学年から泳ぐことができて、決してスピードは出ないのですが、悠々といつまでも泳いでいることが出来る子どもでした。それを勘違いした先生が、競技会に出るようにされ、遅いのは分かっているので、それが嫌で競技会直前に行方不明になったことがありました(笑)。鉄棒が楽しくてぐるぐると回っていて顔面から地面に落下。顔中傷だらけ。そこに母からオキシドールを振りかけられました。この痛みはかなりのものです。友達とふざけていて、コンクリートの階段に頭部から激突。病院送りで数針を縫うけが。鬼ごっこをしていて鉄の扉に指を挟んで骨折。全治一か月。肘とひざにはいつも擦りむいた傷と治りかけのかさぶたがありました。ちっともじっとしていない子どもでした。ですから遊具を見るとやってみたくなるのですね。困ったものです。体のことを考えたいと思います。