静まりの時 第二コリント11・12~15
日付:2023年08月04日(金)
12 私は、今していることを今後も続けるつもりです。それは、ある人たちが自分たちで誇りとしていることについて、私たちと同じだと認められる機会を求めているのを断ち切るためです。
13 こういう者たちは偽使徒、人を欺く働き人であり、キリストの使徒に変装しているのです。
14 しかし、驚くには及びません。サタンでさえ光の御使いに変装します。
15 ですから、サタンのしもべどもが義のしもべに変装したとしても、大したことではありません。彼らの最後は、その行いにふさわしいものとなるでしょう。
(第二コリント11・12~15)
11章1~15節には共同訳などでは「偽使徒たち」と表題がついています。
「偽使徒」とはいったいどういう人たちだったのでしょう。間違った教えを教えていた、ということでしょうか。それもあるかもしれません。しかしここでパウロが語っているのは、そのような偽使徒も「キリストの使徒に変装している」「光の御使い」「義のしもべに変装した」というのです。つまり一見その教えや行いや、つまり奉仕活動や説教内容はまさに正統的と言いますか、正しい使徒たちと何ら変わるところがない、というのです。
この使徒という言葉は、「アポストロス」、遣わされた者、派遣された者、使者という意味です。自分がある時に思い立って福音宣教を始めたというのではなく、神さまから遣わされた人ということです。神さまがこっちに行け、と言われればこっちに生き、あちらに行けと言われるとあちらに行く、とどまれと言われればとどまることのできる人。それが使徒です。
竹森先生の説教集には、使徒については「どんなに有能であっても、自分のために生きる者であってはならない」「自分のためには、何もしない」「神のみ業のために、自分は全く死ぬ」と書かれていました。
それに対して偽使徒というのですから、神さまから遣わされていない人たち、ということでしょう。神さまから遣わされていない、ということは、自分の思いで福音宣教をしている人たち、ということです。神さまがどういおうと、わが道を行く、という人です。自分がいつも中心で、自分が良いと思ったことをやり、だれが止めても止めることがありません。自分が正しいと思っているのですから。一見良いことをたくさんやるのですが、すべて自分の誉れのためですから、歯止めがききません。
同じく先の説教集には、偽使徒は「いつでも、自分のため」「自分の利益と名誉のため」「神の栄光のために生きているように見えますが、実は、上手に自分の益をはかり、自分が得をするようにしている」「自分に力があることを確信し、自分がやれば、何でもできるように思っている」と書かれていました。
本当の使徒か、それとも偽の使徒なのか。その違いは、その行いによるのではなく、神さま中心か、自分中心か、の違いである、ということでしょう。
「私は、今していることを今後も続けるつもりです。それは、ある人たちが自分たちで誇りとしていることについて、私たちと同じだと認められる機会を求めているのを断ち切るためです。」(12)
パウロは、今していること、すなわち福音宣教を今後も続けるつもりだ、と言います。その理由として、偽使徒が、本当の使徒であると認められる機会を求めているのを断ち切るためだ、と言います。神さまから遣わされて、ただ神さまのご栄光のためだけに生きるのが使徒なのだ、ということを明らかにし続ける、そうして、自分の誉れのために、栄光のために、さも立派な奉仕活動をしている人たちが、教会において、そのような行為がさも正しいかのようになってしまう道を断ち切りたい、というのです。
パウロがこんなに激しく語るのは、教会がどのようなところであるのか、ということが問題となっているからです。
教会が、自分の自己実現のための場であったり、奉仕が自分の価値を確かめるための道具のようなことになっていてはいけない。それはもはや教会ではない、というパウロの思いがここに明らかになっているのだと思います。
ただ人間はみな褒められればうれしいものです。誰かが喜んでくださり、その喜びを生み出したのが自分である、ということを知るならば、こちらもうれしくなるものです。これは自然な感情だと思います。しかし人間の自然な感情だからと言って、それが手放しに善であると言い切れるのか。そこには罪びとであることの問題、あるいは誘惑が含まれているのではないか、と信仰を持っている者ならば考えなければならないのだと思います。「彼らの最後は、その行いにふさわしいものとなるでしょう。」というのですから、教会の問題であるとともに、またそのような自分の誉れのために教会活動をしている人たちの行く末の問題でもあるのです。
それで、教会が聖いところ、すなわち神さまの教会であるために、教会はその歴史の中で様々なルールをつくってきました。「自分の誉れのためではなく徹底して神さまの栄光のために」ということが明らかにされるためのルール。そしてこのルールを大切にしようという信仰者たちの謙遜によって、教会は前進します。