静まりの時 ヨブ40・7~14
日付:2023年06月17日(土)
自分を義とするため、わたしを不義に定めるのか。
(ヨブ40・8)
圧倒的な苦しみの中に放り込まれたヨブ。ヨブはその苦しみの原因、理由を求めます。しかし見つかりません。神さまに問いますが、答えが返って来ません。
神が正義であるならば、理由のない苦しみを与えるはずがない、必ず理由があるはずだ。ヨブを慰めようとやって来た友人たちはあれこれと理由を見つけ出そうとします。しかしどれもヨブを納得させるものではありませんでした。行き着くところは、神は正義ではない、不正なのだ、と。苦しみに出会う誰もが体験することではないかと思います。いっそのこと、神さまは不正なお方、暴君のような自分勝手なお方、その日の気分によって幸福を与えたり不幸を与えたりするお方なのだ、と考えたほうが合点がいくというか、楽になるというか、そんなことさえ考えてしまうことでしょう。
神を不義とする。しかし、それは結局、義の神は、理由のない苦しみを与えるはずがない、という私たちの義を満足させるためでしょう。神を義とするためには、自分自身を不義とする、ということが必要になってくるのかもしれません。
さて、そんな苦しみの中に放り込まれたならば、神さまが義であるとか、不義であるとかということで悩まずに、神さまなどいない、と結論づければよいのではないか、とも思えてきます。しかしヨブはそうはしないのです。どこまでも、神さまに問う、ということをします。結局ヨブ記を読むと、ヨブに与えられた苦しみの理由を、神さまは明らかにされないように思えますが、しかしヨブは神さまが答えてくださった、ということ自体に納得します。不思議です。
さて、十二時から午後三時まで闇が全地をおおった。三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。
「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」
これは、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。
(マタイ27・45,46)
主イエスさまも、十字架上で「どうして」と問われました。この時父なる神さまはお答えになりません。沈黙を守り通されます。沈黙をもって答える、ということかもしれません。どんなにお辛いことだったであろう、と思います。そしてその答えない父なる神に向かって、なお「わが神」と呼びかけられるイエスさま。
ある先生は、ここにおいてもなお二人称の祈りがある、と言われました。わが神、私の神さま、と問う、呼びかける、ということ。たとえ自分を納得させる理由が見つからなくとも、神さまとの二人称の交わりの中におかれている、ということ自体が、人間を救うのです。永遠の命に生きる道が開かれるのです。
どんなに深い苦しみの中に置かれても、この神さまはともにいてくださいます。
明日は主の日。神さまに向かって、わが神、と呼びかけるために、ともに礼拝を捧げます。