もし、人が愛を得ようとして

静まりの時 雅歌8・6b~7
日付:2023年06月15日(木)

もし、人が愛を得ようとして
自分の財産をことごとく与えたなら、
その人はただの蔑みを受けるだけです。
(雅歌8・7b)

他の訳では

もし人がその家の財産をことごとく与えて、愛に換えようとするならば、いたくいやしめられるでしょう。(口語訳)

愛を支配しようと 財宝などを差し出す人があれば その人は必ずさげすまれる。(新共同訳)

愛を手に入れるために、家の財産をすべて差し出す者がいたとしても 蔑まれるだけでしょう。(共同訳2018)

もし、人が自分の全財産を投げ出して、愛を手に収めようとしても、ただ、あざけりを受けるだけです。(フランシスコ会訳)

 「愛を得る」「愛を手に入れる」「愛を支配する」、そのために、家の財産、財宝を与えようとするならば、「蔑まれる」「いやしめられる」「あざけりを受ける」。

 愛は財産、財宝によって手に入れたり支配できるものではないのです。ですからそのような方法で手に入れようとしても叶わないことです。
 さらに叶わないだけではなく、そのようにしようとする者は「蔑まれる」「いやしめられる」「あざけりを受ける」。

 愛が手に入らないだけでなく、蔑みを受ける者となってしまう。ゼロではなくマイナスになってしまう、ということでしょう。愛をお金で左右しようとする者は、それによってその人自身の在り方が明らかにされるということでしょう。

「シモンは、使徒たちが手を置くことで御霊が与えられるのを見て、使徒たちのところに金を持って来て、『私が手を置く者がだれでも聖霊を受けられるように、その権威を私にも下さい』と言った。」
(使徒8・18,19)

 「シモニイ(simony)」(聖職売買)という言葉が生まれることになった個所です。ここには「お金」の問題もありますが、それとともに神さまを、人間の都合で左右しようとする問題もあります。御利益宗教、偶像礼拝の問題でしょうか。

 イエスさまは十字架の上で、自らのすべてを差し出してくださいました。それによって私たちへの愛を明らかにしてくださいました。見方によれば、私たちの愛を手に入れるために、ご自身のすべてを差し出された、ということですが、決定的な違いは、イエスさまは自分の財産を投げ出されたのではなく、御自身を投げ出された、ということです。

 若い青年が、永遠の命を得るためにどのような良いことをすればよいか、とイエスさまに尋ねました。イエスさまは、全財産を貧しい人たちに与えて私に従いなさい、と言われました。その言葉に青年は悲しみながら帰っていきました。イエスさまがそこで言われたことも、全財産というよりも、自分自身を捨てて、そして私に従ってきなさい、ということなのだと思います。
 おおよそ愛は、自分自身を与えることでなければ、手に入れることができない、あるいは手に入れたと思っても、手に入れたことにはならないものだ、ということでしょう。

 財産のある方々にとっては、大きな誘惑です。しかし財産がない者にとっては誘惑ではないか、といえばそうでもないでしょう。わずかのものに執着して、人の愛を、神さまの愛を左右しようとしてしまう性根があることを神さまの前に悔い改めなければなりません。

 トッポンチーノというものを娘の要望で妻が作りました。おくるみ、みたいなものでしょうか。抱っこで眠った赤ちゃんをベッドに寝かしつけようとして、しばしば再び泣かれるという憂き目にあうのですが、これに母親のにおいをつけておくとそれが少なくなるそうです。母親のにおいってすごいですね。これもお金では買えないものでしょうか。(洗濯すれば同じではないかと思うのですが) 助産院に持参するそうで、私も連れて行ってもらえそうです。