静まりの時 ナホム1・1~10
日付:2023年06月14日(水)
主はいつくしみ深く、
苦難の日の砦。
ご自分に身を避ける者を知っていてくださる。
(ナホム1・7)
小預言書のひとつナホム書は、「ニネベについての宣告」という言葉で始まり、「主はねたんで復讐する神」と非常に厳しい裁きの神の姿が記されます。しかし7節に突如として「主はいつくしみ深い」という言葉が語られ、厳しい裁きの中にある愛の神の姿が明らかにされます。不完全ではあるのですが、この2~8節は、アルファベット詩(数え歌)になっています。つまり歌い継がれた詩であるということです。
ねたみの神、復讐の神と、いつくしみ深い神、愛の神。神さまは、その両面を兼ね備えていおられるということなのか。あるいはねたみ、復讐、と、いつくしみ、愛は、深いところでつながっているということなのか。ねたみや復讐心のない愛は愛ではない、あるいは愛やいつくしみのないねたみや復讐心は真実のものではない、ということなのか。なかなか難しい問題です。
十字架の愛は、おそらくこのねたみの神と慈しみ深い愛の神の二つが一つにされたものなのだと思います。
「十字架上の苦しみのさいごの刹那に見捨てられること、どちら側にも、なんという愛の深淵があることだろう。」
(シモーヌ・ヴェイユ、『重力と恩寵』、「十字架」、田辺保訳、1995、147頁)
見捨てる父なる神、見捨てらえれる子なる神。このどちらの側にも、愛の深淵がある、とヴェイユは語ります。おおよそねたみ、怒り、さばきのない愛は、愛ではないのでしょう。私の罪は、神の命でしかあがなうことのできない深く恐ろしいものなのです。そして神さまはそのような罪の中で滅んでしまう私たちを命を捨ててまで救いたいと願われたのです。十字架の死は、中途半端な死ではなく、肉体的にも、精神的にも、そして霊的にも完全な死だったのです。それによって、私たちは救われました。ですからこの救いは完全です。
信仰は、神さまを知ることですが、それはまたこのような神さまに知られていることを知ることでもあります。
昨日は久しぶりに対面での牧羊会でした。会議の最後には、今月予定の賛美集会にて教師チームの歌う賛美の練習をしました。今年亡くなられたジャック・ヘイフォードの作った「マジェスティー」を賛美します。英語でということでしたので、渡された楽譜にカタカナを打たなければならないと思ったのですが(笑)、なんとか歌うことができました。
牧羊会は礼拝で始まるのですが、そこで「きのうもきょうもとわに」という賛美を歌いました。新聖歌になって外されたものです。以前に使っていた聖歌では602番でした。懐かしくもあり、とても恵まれました。