私は自分が信じてきた方をよく知っており

静まりの時 第二テモテ1・9~18
日付:2023年05月26日(金)

11 この福音のために、私は宣教者、使徒、また教師として任命されました。
12 そのために、私はこのような苦しみにあっています。しかし、それを恥とは思っていません。なぜなら、私は自分が信じてきた方をよく知っており、また、その方は私がお任せしたものを、かの日まで守ることがおできになると確信しているからです。
13 あなたは、キリスト・イエスにある信仰と愛のうちに、私から聞いた健全なことばを手本にしなさい。
14 自分に委ねられた良いものを、私たちのうちに宿る聖霊によって守りなさい。
(第二テモテ1・11~14)

 「福音」とは、良い知らせ。良い知らせのために、あるいは良い知らせを宣べ伝える宣教者、使徒、教師として神さまに任命されたので、「私はこのような苦しみにあっています」とパウロは語りました。
 苦しみの原因はさまざまかもしれません。15節にはパウロを離れて行った人たち、つまりパウロを見捨てた人たちのことが記されていますが、そのような人間関係的な問題かもしれません。あるいはこのときパウロは獄中にいたということでしたら、牢獄につながれていることの苦しみかもしれません。あるいは、第二コリント12章7節を見ると、パウロは祈っても解決しない問題を抱えていたということですから、そのような「肉体のとげ」の問題かもしれません。いずれにせよ、そのような苦しみも、福音のため、福音宣教のため、良い知らせが人びとに宣べ伝えられるためである、というのです。
 このような苦しみにあっていることを、恥とは思っていない、とパウロは語ります。信仰を持っているのになぜあなたはそのような苦しみの中にあるのですか、イエスさまがまことの神さまであれば、どうしてそのような困難を経験しなければならないのですか、と誰かから問われたのかもしれません。あるいは自分でも問うたことかもしれません。恥じてもおかしくありません。しかしパウロは恥じてはいない、と胸を張るのです。
 それはなぜか。なぜ恥じることがないのか。それは自分が信じているイエスさまのことをよく知っているからだ、といいます。どう信じているのか。「私がお任せしたものを、かの日まで守ることがおできになると確信しているからだ」といいます。少し意味が分かりにくいのですが、共同訳では

「私に委ねられたものを、その方がかの日まで守ることがおできになると確信しているからです」(第二テモテ1・12、共同訳2018)

 私に委ねられたもの。それは福音であり、教会での奉仕でありまた異邦人伝道かもしれません。あるいはパウロに与えられている賜物かもしれません。それを守ってくださるのは、それを委ねてくださったイエスさまご自身である、とパウロは確信しています。イエスさまとはそういうお方であると信じているのです。だから恥じていない。
 私たちがもし何かを恥じることがあるとすれば、それはイエスさまのことがまだよくわかっていないからである、といえるかもしれません。恥じることのない生き方は、より深くイエスさまのことを知ることが必要なのでしょう。イエスさまがどのようなお方であるのかを知る、それが福音を恥じないで生きる、苦しみの中にあっても胸を張って生きることができる道なのだ、というのです。

 そこで二つのことが命じられています。

「あなたは、キリスト・イエスにある信仰と愛のうちに、私から聞いた健全なことばを手本にしなさい。自分に委ねられた良いものを、私たちのうちに宿る聖霊によって守りなさい。」(13,14)

 一つは、イエスさまにある信仰と愛のうちに、あるいは信仰と愛をもって、パウロから聞いた健全なことばを手本にすること。何もない中に生きていくのではなく、私たちの信仰には手本があるのです。こういった場合どうすればよいか、という事態に直面した時にすでに二千年のキリスト教会が経験したことを見倣えばよい、というのです。聖書にはそのような知恵がぎっしりと詰まっています。
 もう一つは、自分に委ねられた良いものを、私たちのうちに宿る聖霊によって守ること。神さまは私たちに良いものを委ねていてくださいます。その良いものとは、さまざまな賜物のことかもしれません。信仰そのものかもしれません。それを自分の力によって守るのではない。聖霊によって守るのです。委ねられたものを、かの日まで守ることができるのは神さまだけですから、その神さまにますます委ねよう、というのだと思います。
 イエスさまを信じる者は、あらゆる事態の中にあっても、勝利者であるイエスさまがともにいてくださるので、大安心なのです。

 エアコン設置に向けて、部屋の模様替えとついでに掃除をすることになったのですが、どうしてこんなものを後生大事に持っているのだろう、というものがわんさと出てきます。鉛筆のキャップ、ちびた色鉛筆、折れたカッターの刃、すでに何が書いてあるのか判明しない新聞の切り抜き、などなど。たまりにたまった古切手も日本キリスト教海外医療協力会が受付を再開したようなので、送付の準備をしたり。ずいぶんすっきりしましたが、子どもたちが幼いころに書いてプレゼントしてくれた、おとうさんいつもありがとう、のカードは捨てることができませんでした。

 大相撲夏場所。「頭捻り(すぶねり)」という技があるのですね・・・。