これらのことを十分な権威をもって語り

静まりの時 テトス2・11~15
日付:2023年05月27日(土)

11 実に、すべての人に救いをもたらす神の恵みが現れたのです。
12 その恵みは、私たちが不敬虔とこの世の欲を捨て、今の世にあって、慎み深く、正しく、敬虔に生活し、
13 祝福に満ちた望み、すなわち、大いなる神であり私たちの救い主であるイエス・キリストの、栄光ある現れを待ち望むように教えています。
14 キリストは、私たちをすべての不法から贖い出し、良いわざに熱心な選びの民をご自分のものとしてきよめるため、私たちのためにご自分を献げられたのです。
15 あなたは、これらのことを十分な権威をもって語り、勧め、戒めなさい。だれにも軽んじられてはいけません。
(テトス2・11~15)

 「実に、すべての人に救いをもたらす神の恵みが現れたのです」。共同訳では「実に、救いをもたらす神の恵みがすべての人に現されました。」
 動詞に近いほうに強調点が置かれているような感じがしますので、新改訳では、「神の恵み」が強調され、共同訳では「すべての人」が強調されるような印象を受けます。いずれも大切なことだと思います。神さまの恵みは「現される」ものなのです。また神さまの恵みが、本当に恵みであるということであれば、それはすべての人に現れることであるはずです。分け隔てはありません。私にも現されたことであり、また共に生きるすべての人に現されているのです。

 この恵みが私たちに救いをもたらします。この恵みが教えていることは、「私たちが不敬虔とこの世の欲を捨て、今の世にあって、慎み深く、正しく、敬虔に生活し、祝福に満ちた望み、すなわち、大いなる神であり私たちの救い主であるイエス・キリストの、栄光ある現れを待ち望む」こと。
 イエスさまは「私たちをすべての不法から贖い出し、良いわざに熱心な選びの民をご自分のものとしてきよめるため、私たちのためにご自分を献げられ」ました。
 イエスさまの十字架は、罪びとである私たちのその罪を赦すためでした。私たちはイエスさまの十字架によって罪びとでありながら義人としてくださったのです。
 しかしそれと同時に、イエスさまの十字架は、私たちを罪の奴隷から贖いだすため、そしてきよめるためでした。神さまのものとしてきよめるため。それがキリスト者の信仰生活の目当てです。

 きよめられるということは、文字通り聖くされるということですが、それは神さまのものとされるということです。
 私の人生、私のいのち、私のものだと思っていたものをことごとく神さまのものとする。それは罪の奴隷であった私たちが、神さまの「しもべ」となり、また「神さまの子ども」となる、ということです。

「あなたは、これらのことを十分な権威をもって語り、勧め、戒めなさい。だれにも軽んじられてはいけません。」(15)

 テトスを軽んじる者がいたということでしょうか。あるいはだれもテトスを軽んじてなどいないのですが、テトス自身が自信を失い、自己憐憫の中に落ち込んでいた、ということでしょうか。

 「軽んじられないようにする」ということは難しいことです。権威をもって語ろうとして威勢を張ってみても、そもそも威厳がなければ虚勢を張ることになるだけです。威厳を持つといっても、威厳は自分がつけるものではなく、周りの人たちがそう感じてくれることですから、難しいことなのです。一方「権力」は周りが認めてくれなくても、あるいは周りが認めてくれないからこそ、発動されることですから、そう難しいことではありません。さまざまな力を見せつければいいだけですから。もし威厳を持つ、あるいは権威をもつということが、権力を持つということとはき違えてしまうならば、結果は破壊しかありません。かろうじて体裁が守られたとしてもあたりは焼け野原、累々たる屍の上に、権力者だけが立っているという悲惨な状態だけが生まれることでしょう。

 教会もその歴史を学ぶと、権威を権力とはき違えてしまった時代が数多くありました。しかし教会が語る言葉は、権力ではなく権威をもって語られなければならないのです。そうでなければ人を陶冶すること、勧め、戒めることとはならないでしょう。

 この「権威をもって」と訳されている言葉は、命令する、という意味の言葉ですが、そのことばの成り立ちをみると、上に(あるいは「前に」)置く(定まった位置に置く)、といった意味を想像することができます。
 「権威をもって語る」、ということは、あらゆるものに先立って「語られる」、ということなのです。
 昨日も関東で地震が起こりました。7時のニュースを見ていると、急に報道が地震一色になりました。その後30分以上、地震に関する報道となりました。そのほかにも大きなニュースがあったと思いますが、すべてに先立って報道されました。
 神さまの言葉は、そのようにすべてに先立って語られる、ということかもしれません。
 私たちが日曜日に礼拝において聖書の御言葉を聞くのは、そのような緊急性をもって語られる、あらゆるものに優先して語られる、ということです。そうしてこそ「勧め」そして「戒め」ということが成り立つ、可能となる、ということでしょう。

 権威という言葉から、以下を引用しておきます。

「聖書の権威主義的ではない権威

 キリスト教信仰にとって聖書をそれほど重要なものにしているものは何だろう。それはその内容である。これが問答書の答えである。その内容が聖書の権威性の決定的な根拠である。しかし重要なことは、ここで権威と権威主義的な態度との混同が起こらないようにすることである。聖書は権威主義的ではない。聖書は強要しない。もちろん聖書の影響史は、権威主義的な傾向によっても特徴づけられる面があった。人間が聖書を自分の手中に収めようとして、聖書が彼ら自身に対して対峙していることを見ることがなくなった時、聖書は権威主義的になった。しかし聖書の内容は、究極的には人間が自分たちの考え方の枠組みに収めきることはできず、神は世界に常に対峙しておられるのである。権威主義的な真理要求は読む者、聴く者の成熟さを真剣に受け止めていない。聖書はしかし、それとは違うように私たちに近づいてくる。聖書はまさに読む者、聴く者の彼らなりの成熟度をそのまま受け入れて、それを聖書の展開に組み込もうとする。聖書は時折素朴な人間の言葉で、ある一つの神的な歴史、いや、ほかでもなくあの神の歴史を物語っている。聖書は物語り、報告し、私たちが驚き感謝し深く心動かされながら神の歩まれる道を身をもって知るようにと、私たちを招いている。そこに聖書の権威がある。」

(『ハイデルベルク信仰問答との対話』、65頁f)

 「聖書にこう書いてある!」と高圧的、威圧的に主張することは、権威主義的であって権威をもって語っていることではない、ということでしょう。本当に権威をもって語られる、ということは、読む者、聞く者の成熟さを真剣に受け止めて、寄り添いながら同じところに立って語るということによってはじめて成り立つことでしょう。そのような自由の中にあって語られる、そして読まれる、聴かれる、つまり権威主義的なことを一切廃したところで、聖書は権威をもって語られることになるのです。

 今日は備えの日。あすは主の日。良い備えの一日を送りましょう。

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教会の花壇のアジサイが色づき始めました。

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本部の畑に子どもたちとともに植えた芋の苗はしっかりとついたようです。