静まりの時 使徒2・22~28
日付:2023年05月29日(月)
22 イスラエルの皆さん、これらのことばを聞いてください。神はナザレ人イエスによって、あなたがたの間で力あるわざと不思議としるしを行い、それによって、あなたがたにこの方を証しされました。それは、あなたがた自身がご承知のことです。
23 神が定めた計画と神の予知によって引き渡されたこのイエスを、あなたがたは律法を持たない人々の手によって十字架につけて殺したのです。
24 しかし神は、イエスを死の苦しみから解き放って、よみがえらせました。この方が死につながれていることなど、あり得なかったからです。
(使徒2・22~24)
22節は、共同訳では以下の通りです。
「イスラエルの人たち、これから話すことを聞いてください。ナザレの人イエスこそ、神から遣わされた方です。神は、この方を通してあなたがたの間で行われた奇跡と不思議な業としるしとによって、そのことをあなたがたに示されました。あなたがた自身がご承知のとおりです。」(共同訳2018、使徒2・22)
「彼らは新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って嘲る者たちに向かって、11人とともに立ち上がったペテロ(14)は、旧約聖書ヨエル書を引用し、「すべての人にわたしの霊を注ぐ」(17)と、聖霊降臨を説明し始めました。
そして語り始めたのは、「ナザレの人イエスこそ、神から遣わされた方です」。
聖霊のことを話し始めたのに、いきなりイエスさまのこと、そしてイエスさまの十字架と復活とを話し始めるのです。
聖霊について語ろうとして、聖霊のことは語らず、イエスさまの十字架と復活を語るペテロ。ここに聖書が聖霊について語る「語り」方、教会が聖霊を語ることとはいったいどのように語るのか、が明らかにされています。聖霊を語る、ということは、それはイエスさまを語るということです。イエスさまの十字架と復活とを切り離しては聖霊を語ることにはならないのです。
聖霊は、息吹であり風であり、私たちの思いをはるかにこえて豊かにお働きなさる神ご自身ですが、いわゆる前に出ることをよしとされず、つねにイエスさまを指し示すことに愛の全力を注いでおられます。私たちが祈るときに、ご聖霊さまへの祈り、ということも、時には許容範囲かもしれませんが、自分に向かって祈るということよりも、主イエスさまのお名前によって、父なる神さまに祈ることを聖霊は喜ばれるのだと思います。
聖霊に満たされる、とは、イエスさまの十字架と復活の御業を深く学び、その贖いと永遠の命に生きる喜びに満たされるということです。
「神が定めた計画と神の予知によって引き渡されたこのイエスを、あなたがたは律法を持たない人々の手によって十字架につけて殺したのです。」(23)
「神が定めた計画と神の予知」。イエスさまが「引き渡された」のは、神さまがそのようにお定めになったことである、神さまご自身のご計画の中にあったことである、とペテロは語ります。
そうしてイエスさまは十字架の上で殺されました。殺したのは「律法を持たない人々」すなわちピラトでありローマの兵たちですが、しかしそれはユダヤの人たちが殺したことなのだ、と語ります。実際には手を下さなかったかもしれないが、真犯人はあなたがただ、というのです。
「しかし神は、イエスを死の苦しみから解き放って、よみがえらせました。」(24)
「しかし」十字架に死なれ、葬られたイエスさまは、神さまによって復活させられました。イエスさまが、復活の力を持っていたので、その力によって復活した、というのではないと言います。もしそのようにたとえ死んでも、復活の力を秘めているとすれば、それは私たちの死とは全く異質なものであり、その死から復活は、私たちの希望とはなり得ません。イエスさまの死は完全な死であり、私たちの死と同じ絶望だったのです。しかしその絶望以外の何物でもない死の中に墜落されたイエスさまを「神」は甦らせてくださいました。神さまというお方は、死を滅ぼすことができる、死を支配しておられる。この神さまを信じるということは、信じた者に永遠の命への希望を与えるのです。
「この方が死につながれていることなど、あり得なかったからです。」(24)
「あり得ないこと」はいろいろありますが、何よりもイエスさまが死につながれていることなど、あり得ないことなのです。『合理的にあり得ない』というドラマもあるようですが、とにかくイエスさまが死につながれていることなどありえないのです。
ということは、そのイエスさまの復活につなげていただいた私たちも、死につながれていることなどあり得ないのだ、と言ってよいのではないでしょうか。
先日も信仰者の葬儀に参加しましたが、故人をしのびつつ、この方がこのまま永遠に死につながれたままであることなどあり得ない、と確信することでした。
「あなたは私に、いのちの道を知らせてくださいます。あなたの御前で、私を喜びで満たしてくださいます。」(28)。ハレルヤ!
昨日は、同労の先生が説教を取り次いでくださいました。感謝します。それでいつもよりも心に余裕のある主の日でした。午後に、近くのホールを会場に、心臓血液関係の講演会がありました。かかりつけの病院が案内していたものです。少し遅れてでしたが参加しました。600席の会場が満席状態でした。心臓病の種類、その説明、治療の方法、退院後の生活の仕方などなど。県内の専門医による丁寧な講演で、大変勉強になりました。すでに知っていることも多かったのですが、しかしあらためてスライドなどを交えて聞かせていただくとよくわかります。
会場には、医療関係者も多かったのかもしれませんが、それ以上に私のような心不全患者あるいはその家族と見える方々がたくさん参加しておられ、みなさん熱心に耳を傾けておられました。杖を突いた人、ゆっくりと階段を上り下りする人、などなど。少し大げさに言うとすると、私の心の中には「戦友」みたいな不思議な仲間意識がありました。講演くださったお医者さんも、その語られる言葉に、一人でも救いたい、健やかに過ごしていただきたい、という熱意があふれていました。ここで倒れても大丈夫だな、という安心感がありました。
手術の様子の動画も多数見ることになりましたが、手術に携わる医療スタッフの方々はものすごい集中力と忍耐力をもって臨んでいてくださるのだな、と感動しました。心臓外科手術の場合、1000ほどの工程がすべて決められていて、一つも間違えられずにすべてのスタッフが了解されている中に、手術が進められていくそうです。
心臓は、生まれる前から動いています。母親が自らのからだに新しい命が芽生えたことに気づく前から、心臓が動き始めているのです。それが死ぬまで動き続けている。1秒に一回の心拍とすれば、1分で60回、1時間で3,600回、一日で86,400回、1年で31,536,000回。私はいま61歳ですから1,923,696,000回。生まれる前の10か月も加えると、ざっと20億回、拍動していることになります。
これは人間が作った機械、たとえば蝶番一つをとってみても、20億回大丈夫です、と保証する製品はすごいことですよね~。20億回一度も壊れることなく動き続けている。しかもその主(あるじ)である私が眠りこけているときも動き続けている。あるじが不摂生で心筋梗塞をお起こして壊しかけてしまっても、それでも壊死しなかった部分が頑張って動き続けている。なんと健気(けなげ)な臓器でしょう。
胸骨を開き、心膜が切開されてあらわになった心臓の動画も見せていただきましたが、そのけな気さに、愛おしさがあふれました。
これが偶然に成り立っているとは考えられません。創造主である神さまはなんと素晴らしいことをなさってくださったのでしょう。そして今も支え続けていてくださるのです。生かされていることはほんとうに素晴らしいことです。生きているだけですごいことです。