このイエスを、あなたがたは十字架につけたのです

静まりの時 使徒2・29~36
日付:2023年05月30日(火)

ですから、イスラエルの全家は、このことをはっきりと知らなければなりません。神が今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。

(使徒2・36)

 聖霊降臨についての説教の結末は、会衆に向かって、十字架をつけたのはあなた方である、という言葉でした。聖霊を知る、ということは、自らがイエスさまを十字架につけた張本人である、ということを知ることです。

 ペテロの説教の後半は、イエスさまの復活について語られてきました。死に勝利されたお方、まことの神、救い主、旧約聖書に語られた天地の創造主にしては万物の支配者、その名を聖四文字(ヤーウェ)によってご自身を明らかにされたお方、あのダビデ自身も予見した救い主が、このイエス・キリストご自身である、と。
 そしてその死につながれたままであることなどありえないこのお方をあなたがたは十字架につけたのである、と語るのです。
 十字架と復活がセットとなって語られ、その十字架にイエスさまをつけたのが、この「私である」ということを知る。これが聖書のメッセージであり、私たちが知らなければならない唯一のことであり、また十分なことなのです。
 聖書を知る、キリスト教信仰を学ぶ、ということは、この十字架と復活を知る、学ぶ、ということです。これ以外はありません。
 聖書を読んで、倫理道徳を学ぶこともできるでしょう。古代の信仰共同体の在り方や霊的な世界について想像をめぐらすこともできるでしょう。超自然的な神の御業について驚くこともできるでしょう。しかし十字架と復活を学ばないでは、聖書を読んだことにならないのです。キリスト教信仰に生きることができないのです。
 それは逆に言うと、十字架と復活さえ知り学ぶならば、聖書を学んだことになる、ということです。ヘブル語やギリシャ語が分からなくても、歴史を知らなくても、キリスト教の教理を十分に知ることができなくても、復活の主、まことの神であるイエスさまを十字架につけたのは、この「私である」ということを知っているならば、あるいは日々の信仰生活がそれを学ぶためのものである、ということをわきまえているならば、聖書を知っている、ということなのだと思います。