キリストの力が私をおおうために

静まりの時 第二コリント12・1~10
日付:2023年05月06日(土)

9 しかし主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである」と言われました。ですから私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。
10 ですから私は、キリストのゆえに、弱さ、侮辱、苦悩、迫害、困難を喜んでいます。というのは、私が弱いときにこそ、私は強いからです。
(第二コリント12・9、10)

 「ですから私は、キリスト力が私をおおうために」。この「おおう」という言葉は、新改訳2017では欄外の註に別訳として「に宿る」とあります。口語訳や共同訳はそちらを採用しているようです。
 この「おおう」あるいは「宿る」という単語は、ヨハネ1・14の「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた」の「住む」という単語に前置詞「~の中に」がついた単語です。
 イエスさまが私たちの間に住んでくださる、私たちとともに歩んでくださる。そのために、パウロは「大いに喜んで自分の弱さを誇ろう」と語りました。

 弱さとは、この場合、パウロにとっては「肉体のとげ」(7)のことですが、それだけではなく「侮辱、苦悩、迫害、苦難」(10)と話は広がっていきます。自分にとってのあらゆる否定的なこと、この世では評価されない、誇ることなどとんでもない、と思われる事々です。パウロはそれらを誇ろう、しかも大いに誇ろうというのです。
 もし大いに喜んでそれらを誇ることができないならば、キリストの力が私を覆うこと、キリストが私と一緒に住んでくださることが実現しない、というのでしょう。
 キリストの力に真実に満たされている人は、自らの弱さを喜んで誇る人である、ということもできるでしょう。
 誰かから否定的なことを言われてがっかりしたり、それによって自分のプライドが傷つけられたといっては腹を立てているのは、結局自分を誇ろうとしていることであって、イエスさまの力が覆うことを喜びとしていない、ということでしょう。

 さまざまな弱さを、信仰の目をもって見る、ということが必要なのです。信仰の目を持って見るということは、神さまがそれをおゆるしになっている、ということを受け入れるということなのです。神さまがおゆるしになっている、ということを受け入れるということは、その弱さ、あるいは苦しみといってもよいと思いますが、そこにも意味がある。あるいはそこにこそ意味があるということを知ることなのです。
 苦しみの中にも意味がある、というのは、そのような意味を見出すかどうかということとは少し違います。そういう決意や覚悟をもって生きるということなのです。たとえ地上の生涯において意味を見出すことができなかったとしても、そこにも愛なる神さまの愛のお心があると信じて生きるということなのです。私には十分に理解できなかったとしても神さまが知っていてくださる、ということを信じて生きるということなのです。

 今日は備えの日。明日は主の日です。良い備えの一日を送りましょう。