静まりの時 ガラテヤ3・26~29
日付:2023年05月05日(金)
26 あなたがたはみな、信仰により、キリスト・イエスにあって神の子どもです。
27 キリストにつくバプテスマを受けたあなたがたはみな、キリストを着たのです。
28 ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由人もなく、男と女もありません。あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって一つだからです。
29 あなたがたがキリストのものであれば、アブラハムの子孫であり、約束による相続人なのです。
(ガラテヤ3・26~29)
「キリストにあって」(26)、「キリストを着た」(27)、「キリスト・イエスにあって」(28)、「キリストのもの」(29)。
信仰をいただいた、ということは、キリストにあるもの、キリストを着たもの、キリストのものとされた、ということです。信仰をいただいた私たちは、キリストのうちに生きる者とされたのです。
私がキリストをつかんでいるのではなく、キリストが私をつかんでいてくださる。私がキリストを手にしているのではなく、キリストの御手の中に私がある。私がキリストをつかんでいる信仰ならば、私の握力が問われます。しかしキリストの御手の中にあるのがキリスト教信仰ですから、キリストの無限の握力の中に私は守られているのです。
神さまの御手の中におかれている「私」。その「私」の集る教会は、みなキリスト・イエスにあって一つです。教会の一致は、それぞれが神さまによって神さまの御手の中におかれている、ということが確認されて成り立つものです。それぞれの能力によって集っているのではありません。教会の活動に便利だからというのでも全くありません。集められた理由は私のうちにはないのです。ただキリストにあって神の子とされたお互いなのです。ですから、そこに分け隔てはありません。みな神さまによって、すなわち神さまの恵みによって招いていただいたのです。
「キリストにつくバプテスマを受けたあなたがたはみな、キリストを着たのです」。
神さまの一方的な恵みによって招かれたお互いが集う、いわば恵みの共同体である教会は、バプテスマ、洗礼によって始まります。この洗礼も、神さまの一方的な恵みのなかで行われるものです。人間的な要素はできるだけ排除して行われることで、その意味が確かにされます。そういう意味では洗礼式において証しが語られることには少し注意が必要でしょう。証しにおいて洗礼を受ける者が如何にしっかりした信仰を持っているのかを表明し宣言することが主眼であれば、結局人間の業が強調されることになり、神さまの恵みが色あせてしまうような気がします。
ある教会の記念誌を読んだ牧師仲間がその「あとがき」にいたく感動し教えてくださいました。そのあとがきはこのような文章で始まります。「教会の歴史というものは栄光の歴史というより『失敗の歴史』といった方が適切であるかもしれない」。そうして百年を振り返る言葉が続きます。そこには教会の分裂、戦争の勢力への加担、愛の実践の欠如、自己を誇って他を差別したこと、などなど。自己への批判に手心を加えない厳しさをもって振り返るとともに、しかしそこに常に変わらずキリストがともにいてくださった、最後の責任をとりたもうお方は主イエス・キリストである、と信仰の言葉がつづられていました。
教会での証しは、失敗談がいいのかもしれません。「こんな私なのですが、それでもイエスさまはともにいて下さます、ハレルヤ!」という感じです。
牧師も同じです。誇るところは何もない、というところに立ち続けなければ、神さまの恵みを宣べ伝えることはできません。加藤常昭説教集のガラテヤの今朝の個所に次のような文章がありました。
「最近ある牧師の言葉を聞きました。教会の大きさはその牧師の器によって決まる。そう言われたのです。ある大教会の牧師であります。大教会の牧師でなければ言えない言葉かもしれません。一面においてはこの先輩の言葉にも、真理はあるとは思います。それは牧師自信が自分自身を鍛え、修練を重ねて、大きな器になるようにと励ます言葉でもあります」(加藤常昭、『ガラテヤ人への手紙』、加藤常昭説教全集17、ヨルダン社、1992年、150頁)。
「しかし」と以下の文章が続きます。
「これは根本的な間違いを誘うと思ったのです。このようなことを口にし、考え始めた時に、伝道者も、また教会も、堕落し始めるのではないかと私は思う。私が日頃抱く思いは、むしろ逆であります。・・・私は実はこのように主の日の礼拝に皆さんが何十人、あるいは百人を越えて集りますと、いつも懼(おそ)れを感じます。おそらく三人か四人でも、あるいはたったひとりでも、私の説教を聞く者が自分の前に座った時に、同じ懼れを感じるに違いないと思います。いったいこの人たちは何をしにくるのか。私の言葉を聞きに来る。私の言葉を聞き、それを聞き続けて生きるのです。他に何をするのでもない。ここに真理の言葉、いのちの言葉を聞こうとして集まるのであります。自分がその任に耐えるかと問わずにおれません。それにもかかわらずなぜここに立つのか。私も信仰が外からくることを信ずるからであります。皆さんが信仰を持つことができる、あるいは信仰を持ち続けることができる人たちであると思ったり、私自身が、皆さんに信仰を提供し、支えてあげる力が私の中にあると思って講壇に立つことはないのです。それは私の手の中で皆さんが立つことができるとは思わないからであります。当然のことであります。」(同、150頁f)。