静まりの時 ローマ11・33~36
日付:2023年05月04日(木)
ああ、神の知恵と知識の富は、なんと深いことでしょう。神のさばきはなんと知り尽くしがたく、神の道はなんと極めがたいことでしょう。
「だれが主の心を知っているのですか。
だれが主の助言者になったのですか。
だれがまず主に与え、
主から報いを受けるのですか。」
すべてのものが神から発し、神によって成り、神に至るのです。この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。
(ローマ11・33~36)
神さまの知恵と知識の富はなんと深いことか、とパウロは驚いています。神さまのさばきを人間は知り尽くすことはできない。神さまの道を人間は極めることができない、と喜びの声をあげています。すべてのものが神さまから発している、出ている。すべてのものは神さまによって成立している、保たれている。すべてのものは神さまに至る、向かっている、と感謝しています。この神さまに栄光がとこしえに、永遠のあるように、と祈っています。
私たちの人生の悲惨は、これがあやふやになっている、というところにあります。すべてのものは、神さまから発し、神さまによって成り、神さまに至る、ということが分かっていないことが、私たちの人生を行き詰まらせているのです。
私たちは、すべてのものが「私」から発し、「私」によって成り、「私」に至る、とどこか考えてしまっているのではないでしょうか。
私から発し、私によって成り、私に至る、と思っている人生において、ひとたび理解できないことが起こると、誰かのせいにしたり、最終的には神さまのせいにしたり、神さまを不正としてしまうのではないでしょうか。
しかし「私」は人間なのですから、理解できないことも多いはずです。神ではないのですから、私から出ているということばかりではないはずです。私は全能ではないのですから、私によって成り立つことばかりではないことも確かです。私は永遠の存在ではないのですから、私に至るものがあるなどと考えるほうがおかしいでしょう。
人生に理解できないことが起こるとき、それを理解できないこととして、そのまま受け止めることができないのは、私を神としている、ということでしょう。
パウロは、ここで神さまこそまことの神さまです、と告白していると同時に、そのことを何よりも喜びとしています。神さまに栄光があるようにと、神さまに賛美をささげています。
神さまがすべてをご支配しておられるのだ、私にはわからないことがあって当たり前、むしろそのことを喜びとしている、神さまの知恵と知識はまるで宝物のように測りがたい、私はそれを極めることなどできない、私の理解力には限界があるのだ、ハレルヤ、という感じです。
すべてのものが私から出て、私によって保たれ、私に向かっている、と考える人生は、傲慢であるだけでなく、不幸なのです。いつも人の言葉に敏感になっていなければなりません。いつもすべてを理解していなければなりません。寝ている暇も、ボケーとしているときもありません。始終活動していなければなりません。すべてが自分の思い通りにいかないとイライラして落ち着きません。イエスさまはそんな人生を私たちに歩んでほしいと思っておられるわけがありません。
「あたなは神なのか? そんなにすべてに心配して。明日のことも明後日のこともわたしにゆだねればよい、あなたは分かっていなくても大丈夫 わたしが神なのだ」とイエスさまは今日も招いていてくださいます。この神さまに、栄光が永遠にありますように。アーメン。