静まりの時 ローマ11・25~32
日付:2023年05月03日(水)
神は、すべての人を不従順のうちに閉じ込めましたが、それはすべての人をあわれむためだったのです。
(ローマ11・32)
神さまはすべての人を不従順のうちに閉じ込めた、といいます。不従順のうちに閉じ込めたのは、神さまである、と語るのです。
なぜ神さまはそのようなことをなさるのか。それは、すべての人をあわれむためである、と語ります。神さまはすべての人をあわれむために、すべての人を不従順のうちに閉じ込められたのです。
すべての人が閉じ込められたのですから、そこには分け隔てはありません。イスラエルも異邦人もありません。信仰の長い短いも、信仰の対する知恵や知識も一切関係なく、すべての人が不従順のうちに閉じ込められたのです。
その不従順のうちに閉じ込められた、ということが、神さまのあわれみを受ける、ということにつながっているのですから、神さまのあわれみを受けるためには、まず、自らがこの不従順のうちに閉じ込められている存在である、ということを知らなければなりません。
私は不従順である、不従順にしか生きることができない、その不従順に閉じ込められているので、自分の力ではどうすることもできない。そこから抜け出すことは自分では全く不可能である、ということを知らなければなりません。
自分ではどうすることもできないはずなのに、今こうしてイエスさまを信じている、イエスさまに信頼して生きている、という現実を思うと、そこに、神さまがあわれみを働かせてくださった、ということを知ることができます。今こうして信仰に生きている、ということに、神さまの圧倒的なあわれみが注がれているのです。
そうであれば、今不従順の中にある人にも神さまのあわれみが働くはずでしょう。パウロは、そのことを知らせたいと願っているのだと思います。人間にはそれは不可能です。しかし神さまはそれを可能とすることができるのだ、と。
竹森満佐一説教集には、この個所の締めくくりに、
「神にあわれまれて生きている者は、もはや、自負することはなにもないのであります」
(竹森満佐一、『ローマ書講解説教3』、新教出版社、1972年、152頁)
と書かれています。
自負とは、自分の才能や仕事に自信や誇りを持つこと、と広辞苑にありました。
自分の才能や仕事に自信や誇りを持つ、ということは決して悪いことではありません。しかし救いということを考えた時に、そこに「自分の」何かを根拠にし、それに自信や誇りをもってしまうならば、神さまのあわれみが、自分の行いによる報酬のようにとらえられてしまうでしょう。信仰の知識や奉仕も、私たちの自負となってしまう危険をはらんでいるでしょう。それでは神さまのあわれみが分からなくなってしまいます。
また自信や誇りを持つことができない人は、信仰の世界においてさえも生きる力を見出すことができなくなってしまいます。
自負することはなにもない。そのようなところに立たせていただいた。それがキリスト教信仰に生きる者の在り方です。決して謙遜というのではありません。自己卑下でもありません。自負することが何もないにも関わらずこうして生きている。神さまが生かしていてくださる。そのことのみに喜びを見出す者としていただいた、ということです。
信仰生活が喜びにあふれたものであり続けるために、自負することは何もない、というところに常に立ち続けなければなりません。賜物豊かな方を見てもうらやむことなく、自分の足りなさを見せつけられても自己否定することなく、神さまに感謝しながら生きることができる。それがイエスさまを信じる者の生き方なのです。