静まりの時 コロサイ2・16~19
日付:2023年05月02日(火)
こういうわけですから、食べ物と飲み物について、あるいは祭りや新月や安息日のことで、だれかがあなたがたを批判することがあってはなりません。
(コロサイ2・16)
この「批判する」という言葉は、裁く、と訳されることの多い言葉です。ここでは批判と訳されています。共同訳では「批評される」と訳されています。
誰かがあなたがたを批判する、ということが、あってはならない、と「あなたがた」に向かってパウロは語りました。批判をしている者にむかって批判してはならない、と語ったのではなく、またあなたがたは誰かを批判してはならない、と語ったのでもなく、あなたがたは批判されてはならない、と語ったのです。
批判をする誰かの心をコントロールすることはできませんから、ちょっと無茶なことではないかと思います。批判をする人は、どうしても批判をするものですから。
一つの読み方として、批判をされないようにしなさい、批判されるようなことはしないでおきなさい、批判されるような材料は与えないようにしなさい、と読むことができるかもしれません。しかし文脈を見るとどうもそうではない気がしてきます。
次の18節では
「自己卑下や御使い礼拝を喜んでいる者が、あなたがたを断罪することがあってはなりません。」(18)
共同訳2018では
「あなたがたは、自分を卑下したり、天使を礼拝したりする者から、不利な判断を下されてはなりません。」(18、共同訳2018)
教会においては、そのような批判、批評を許してはならない、語らせてはならない、と読むことも可能なのではないか、と思います。
誰しも、心に「思う」ことは自由です。しかし教会のスタンダードな立場として、あるいは教会の信仰告白として、食べ物、飲み物、祭り、新月、安息日、これらが具体的にどのようなものであったのか分かりませんが、批判されてはならない、つまりそれらについて批評しあうような教会となってはならない、とも読めるのではないか、ということです。
今朝の言葉は19節までですが、20節以降は以下の通りです。
「もしあなたがたがキリストとともに死んで、この世のもろもろの霊から離れたのなら、どうして、まだこの世に生きているかのように、『つかむな、味わうな、さわるな』といった定めに縛られるのですか。これらはすべて、使ったら消滅するものについての定めで、人間の戒めや教えによるものです。これらの定めは、人間の好き勝手な礼拝、自己卑下、肉体の苦行のゆえに知恵のあることのように見えますが、何の価値もなく、肉を満足させるだけです。」
(20~23)
つかむな、味わうな、さわるな、という定めに縛られる生き方は、この世に生きているかのような生き方である。あれをやってはならない、こうしなければならない、と律法主義に生きることは、この世の生きているかのような生き方だ、というのです。これらは、人間の好き勝手な礼拝、自己卑下、肉体の苦行のゆえに、知恵のあることのように見える、といいます。しかし実際は何の価値もなく、ただ肉の欲望、人間的な満足を与えるだけだ、と。
「批判することがあってはならない」(16)は、批判されないように、すきを与えないようにしっかりしましょう、ということであれば、それはこの世に生きていることであって、結局肉の欲望を満足させるだけの生き方となってしまう。私たちは主イエスさまと結ばれているのだ、そうであれば、そのことだけを大切に考えていればよい、批判する者には批判させておけばよい、ただ批判をするということを教会のスタンダードにしてはならない、すでに主に結ばれている私たちなのだから、ただ上にあるものを求めよう、上にあるものを思おう、と。
批判や批評が成り立つというか、それらが力を持つのは、批判される側がそれを重大なこととして受け止めるからではないでしょうか。たとえば、妻と散歩をしていて道に咲いている草花の名前を尋ねあったりするのですが、たいてい私の答えはちんぷんかんぷんで間違っていることが多いのです。間違っていても妻はそれを批判することはありません(笑)が、また間違えたからといって、自己卑下することも私にはありません。花の名前をどうでもよいことと思っているわけではありませんが、人生の最も大切なこととまでは思っていない、つまり重大なこととして受け止めていないのです。だから間違ったところで恥ずかしがる必要もありませんし、自由です。しかしこれが、自分にとって大切なことであれば、そうもいかないのではないかと思います。誰かが、花の名前を間違ったからといって批判したとしても、それをもっとも大切なこととして考えない私にとってみればどこ吹く風という感じです。
「食べ物と飲み物について、あるいは祭りや新月や安息日のこと」を重大なこととして、依然とらえ続けているとすれば、批判されること、も成り立つかもしれません。しかしそれよりも、キリストにしっかりと結びついてけられていることが心に定められているならば、誰が批判しようと、そうですね、ごもっとも、おっしゃる通り、と受け流すこともできるのではないか、と思うのです。結局、だれかの批判に敏感になってしまっているのは、批判する人の問題もさることながら、それを重大なこととして受け止めてしまう自分自身の問題が明らかになっているのではないか。
もしそうであるならば、私たちが心しなければならないことは、自分はしっかりとイエスさまに結び付けられているのだ、だから上にあるものを求めよう、上にあるものだけを思おう、ということでしょう。
個人的にはそれぞれ、こだわり、みたいなものがあるので、信仰生活においても、教会生活においても、こうでなければならないという思いがあるものです。それは仕方がないことですが、信仰の問題だけあって、そのこだわりというものが、善(そう思い込んでいるだけのことなのですが)、に裏打ちされてしまっているので、厄介な問題であることは歴史が語っています。しかしこのコロサイ書は、そのような厄介な歴史を歩むことになった私たちに、信仰がもたらす自由とはなにか、本当の自由に生きることとはどういうように生きるのか、を語っているのだと思いました。