静まりの時 コロサイ2・6~15
日付:2023年05月01日(月)
このように、あなたがたは主キリスト・イエスを受け入れたのですから、キリストにあって歩みなさい。キリストのうちに根ざし、建てられ、教えられたとおり信仰を堅くし、あふれるばかりに感謝しなさい。
(コロサイ2・6,7)
キリスト信仰に生きる、ということは、主キリスト・イエスを受け入れることです。受け入れるということは、ただその考え方に同意する、ということ以上に、イエスさまを大切なお客さんとして私の心の中に、私の人生にお迎えする、迎え入れる、という意味でしょう。そうであれば、これからの人生はおのずとイエスさまとともに歩むという道に導かれるはずです。しかし、キリストにあって歩みなさい、と言われなければならないのも私たちの現実なのだと思います。
イエスさまを受け入れた私たちが、いかに、イエスさまにあって歩むことができているだろうか。それが信仰生活のテーマであるということです。そしてそれは私たちの人生の祝福に関わる問題である、ということなのだと思います。
キリストにあって歩む。それは、キリストのうちに根ざすこと、建てられること、教えられたとおり信仰を堅くすること、そしてあふれるばかりに感謝すること、です。
この「キリストのうちに根ざし、建てられ」は、新共同訳では「キリストに根を下ろして造り上げられ」と訳されています。
むかしササユリの生育についてのお話を聞いたことがありました。たしか栗東自然観察の森の職員の方だったと思います。ささゆりは、根を下ろすのに大地をつかむように根を下ろす、甘い香りを放つ可憐な花であるが、その根は貪欲なまでに生きる力にみなぎっている、というようなお話しでした。
甘い香りを放つ可憐な信仰生活であるかどうかは分かりませんが、キリストの香りを放つ信仰生活であるためには、キリストに根ざしていなければなりません。
土台がキリストである、「教えられたとおり」に信仰を堅くする、確かにする、そうして「あふれるばかりに感謝する」のです。
ただ感謝するのではありません。「あふれるばかりに」感謝するのです。コップに注がれた水が、表面張力によって盛り上がり、やがて一点が切れて流れ出すように、感謝するのです。
昔守山に、こまつ、というお好み屋さんがあり、バイトのあとよく友人たちと行ったことを思い出します。老夫婦が二人で営んでいられたお店でした。若者への励ましに満ちていて、そのお店のお好み焼きはビッグサイズなのですが、それ以上に焼きそばが尋常でないぐらいの量なのです。大盛りを頼むと、おそらく3人前は十分あるほどの焼きそばが運ばれてきます。驚きながらもそれを食することを喜びとしていました。若かったですね。おなかがいっぱいになって「耳から焼きそばが出てきそうや~」と誰かが言っていました。
キリストにあっての感謝は、重箱の隅をつついてようやくひねり出したわずかばかりの感謝ではなく、もうこれ以上しまっておくのができない、限界がきてあふれ出してしまう、そういう感謝である、というのです。
昨日は、教会のWEBサイトでお世話になっているサーバーの調子が良くなかったのか、土曜の夜半からアクセスできない状態となっていました。不思議に礼拝の前後はアクセスできたのですが再びできなくなり、夕刻ぐらいでしょうか平常時に戻ったようです。ネット情報では、サーバーの負荷の問題かな、と感じましたが、そろそろ格安サーバーから引っ越しする時期なのかもしれません。関係のみなさん、お騒がせしました。