静まりの時 使徒22・17~21
日付:2023年04月29日(土)
17 それから私がエルサレムに帰り、宮で祈っていたとき、私は夢心地になりました。
18 そして主を見たのです。主は私にこう語られました。『早く、急いでエルサレムを離れなさい。わたしについてあなたがする証しを、人々は受け入れないから。』
19 そこで私は答えました。『主よ。この私が会堂ごとに、あなたを信じる者たちを牢に入れたり、むちで打ったりしていたのを、彼らは知っています。
20 また、あなたの証人ステパノの血が流されたとき、私自身もその場にいて、それに賛成し、彼を殺した者たちの上着の番をしていたのです。』
21 すると主は私に、『行きなさい。わたしはあなたを遠く異邦人に遣わす』と言われました。」
(使徒22・17~21)
使徒の働きには、幾度かパウロの回心の証し、召命の証しが記されています。そのうちの一つがこの使徒22章6~21節で、17節以降は異邦人の使徒となったことが語られています。
エルサレムの神殿で祈っていた時に、恍惚状態となりその中で主に出会った。主は、急いでエルサレムを離れなさい、と言われた。それに対して、自分はかつて迫害者であった、そのことを彼らは知っていると答えました。そう答えるパウロに主は、「行きなさい。わたしはあなたを遠く異邦人に遣わす」と言われた、というのがパウロの派遣の証しでした。
18節の「人々は受け入れないから」の「人々」と、19節の「彼らは知っています」の「彼ら」が誰のことを指しているのか。
おそらくイエスさまを信じていないユダヤ人たちのことを指しているのでしょう。そうすると、主は、イエスさまを知らないユダヤ人たちはあなたの証しを受け入れません、と言われたことになります。その主の言葉に対してパウロは、私が迫害者であったことを彼らは知っています、と答えたということです。
神さまはパウロに、エルサレムにいてはいけない、ユダヤの人たちはあなたの証しを受け入れません、と言われたのですが、パウロとしては、いえいえ神さま、私がキリスト者を迫害していた者であることを彼らは知っています、だから大丈夫ですよ。と答えたように思います。
榊原先生の説教集によると「かつての同志の者として、わたしの言うことをよく聞いてくれるはずだ」「(ステパノの血が流されたとき、それに賛成していた者が)今180度転向してあなた(主イエスさま)のことを語るというその転向に、興味を持ってもよさそうなものだ、むしろ逆に聞き耳を立ててくれるのではないか」ということです。
しかしそう答えたパウロに主が語られた言葉は「行きなさい。わたしはあなたを遠く異邦人に遣わす」でした。その言葉に従って、今異邦人への宣教に従事しているとパウロは語ったのです。
賜物があるから、とか、理屈に合うから、とか、都合がよいからとか、といった理由は一切排除されて、ただ神さまがそのように言われたので、自分は異邦人への宣教の働きをしている、と語ったのです。おおよそ宣教は、そのように、神さまからのお声かけのみによって始まり前進していくのだ、とパウロは語っているのだと思います。
人間的な理由は、時と場によって変化していきます。しかし神さまからの召命の言葉は変わりません。その召命をいただいているかどうか。それが宣教の前進を支えているのです。
「それから私がエルサレムに帰り、宮で祈っていたとき、私は夢心地になりました。」(17。)
パウロは、第三の天に上げられた経験など、いくつか神秘的な体験を語っています。この「夢心地」という言葉は、「夢うつつ」(口語訳)「我を忘れた状態」(共同訳2018)「脱魂状態」(フランシスコ会訳)「気を奪われ」(バルバロ訳)「我を忘れし心地して」(文語訳)。英語の聖書では「trance」、いわゆるトランス状態。原文のギリシャ語では「エクスタシス」、つまりエクスタシーの語源となった言葉です。
「エク」(~から)と「スタシス(ヒステーミ)」(立っている)という言葉ですから、自分がしっかりと立っているところから外に出ている、ということでしょう。それは自己中心から脱却して、神さまを中心とする、ということでしょう。いわゆる忘我の境地はその逆で、むしろ自分の自己中心性を限りなく発揮してしまう状態となる、ということなのです。まったく逆のことなのです。
神さまの御心を聞き、それに従おうとする人は、柔らかい人です。それは自分のうちにキリストがおられる、というよりも、自分自身がキリストのうちにある、ということを知っている人でしょう。
きりすと
われにありとおもうはやすいが
われみずから
きりすとにありと
ほのかにてもかんずるまでのとおかりしみちよ
きりすとが わたしをだいてくれる
わたしのあいもとに わたしが ある(八木重吉)
今日は、本部で、信徒・教職セミナーが行われます。久しぶりに対面でのセミナーです。ライブ配信も行われます。YouTubeなので、集会後も視聴することができると思います。より学びの一日でありますように。準備くださる諸先生方に感謝します。