神に立ち返る者たちを悩ませてはいけません

静まりの時 使徒15・12~21

日付:2023年04月28日(金)

19 ですから、私の判断では、異邦人の間で神に立ち返る者たちを悩ませてはいけません。

20 ただ、偶像に供えて汚れたものと、淫らな行いと、絞め殺したものと、血とを避けるように、彼らに書き送るべきです。

21 モーセの律法は、昔から町ごとに宣べ伝える者たちがいて、安息日ごとに諸会堂で読まれているからです。」

(使徒15・19~21)

使徒15章にはエルサレムで行われた会議の様子が記されています。最初の公会議であったという人もいます。教会はさまざまなことを、会議において議論し決定し執行します。それは民主的ということが言えるかもしれませんが、民主というのは、民が主である、ということばですから、教会では少し違和感があります。教会では「クリストクラシー」、すなわちイエスさまがどのようにお考えであるのか、が議論の中心であり、もしかすると参加者の全員が賛成しなくても、神さまの御心の道を進んでいく、というのが教会のあり方なのだと思います。ではイエスさまの御心を伝えるのは一体誰であるのか。それは教会の正しい道のりで選ばれ任命された牧師です。ですから牧師の責任は重いのです。誰よりも厳しい裁きにさらされるところに立たされます。

さてこのエルサレムでの会議ですが、議題は、異邦人の中から救われた人たちをどう取り扱うかということでした。異邦人の中から救われた人たちに対して、パリサイ派からキリスト者になった人たちが、彼らにも割礼を受けさせなければならない、と言ったのです。そこで教会はどうするべきだろうか、ということで会議が持たれることになりました。

異邦人伝道に従事してきたバルナバとパウロ。そしてパリサイ派から救われたキリスト者。この両者の間で生まれた激しい議論。それぞれの意見を聞きながら「使徒たちと長老たち」が協議しました。多くの議論のあと、ペテロが立ち上がり、私たちは神さまの恵みによって救われた、異邦人たちも同じなのだ、と語りました。すると全会衆はしずかになりました。そこでバルナバとパウロは異邦人の間で行われた数々の御業を語りました。人びとは耳を傾けました。二人の話しが終わると、ヤコブが語ります。ヤコブはエルサレムの教会の監督、今日でいうと教区の司祭、大会の議長のようなことでしょうか。ヤコブは、シメオン(これはペテロのことです)の説明を受け止め、聖書の言葉(アモス書)を引用し、結論を語りました。

「異邦人の間で神に立ち返る者たちを悩ませてはいけません」(19)。

悩ませてはいけない。これがこの会議の結論でした。辞書には、苦情を言う、困らせる、悩ませる、煩わす、と書かれていて聖書にはここだけに使われている単語だそうです。本質的でないことにかかずらって、最も大切なことが見失われてしまう。どうでもよいことに、ごちゃごちゃ言わないでおこう、ということのようです。

「ただ、偶像に供えて汚れたものと、淫らな行いと、絞め殺したものと、血とを避けるように、彼らに書き送るべきです。」(20)

この文章にはさまざまな写本が存在しているそうです。「偶像に供えて汚れたもの」「淫らな行い」「絞め殺したもの」「血」という四つが書かれているのですが、いずれかが省かれ三つになっている写本があります。儀式的なこと、倫理道徳的なこととしてあげられているのかもしれません。大切なことは「神に立ち返る者たちを悩ませてはいけない」ということであって、具体的な規定については時代とともに変化していったということでしょう。あるいは割礼が書かれていない、ということが重要なのかもしれません。

もっとも大切なことと、そうでないものを峻別し、もっとも大切なことだけを教会の規定として、さまざまな文化を持つ者たちが同じテーブルに着くことができるようにした、ということでしょう。この規定は、ユダヤ人キリスト者も異邦人キリスト者も、ともに聖餐式に参加することができる道を開いた、とある先生は書いておられました。それはそれまでいっしょくたに行われていた愛餐会と聖餐式に、これ以降きちんとその間に線引きをすることになった、のかもしれません。

教会は、この会議において決議されたこと、つまり議事録や会議で出来上がったあたらしい規則を作成し、「アンティオキア」の教会、すなわち異邦人の教会に書き送りました(22~29)。人びとはそれを読んで、その励ましのことばに喜びました(30)。

ここで喜んだ人びとの多くは異邦人キリスト者のことでしょう。また異邦人キリスト者とともに礼拝をささげていたユダヤ人キリスト者もいたことでしょう。異邦人キリスト者を悩ませてはいけない、という会議での結論が、彼らに喜びを与えたのです。

異邦人キリスト者の悩みを想像すると、自分たちは、偶像にささげた肉であってもへいきのへっちゃらで食べている、しかしともに礼拝しているユダヤ人キリスト者は、食べない。その横で食べるというのは、少なからず気が引ける、しかしさまざまな理由から自分たちは食べないわけにはいかない、同じテーブルについているのだからどちらかに決めてもらえると安心できるのだが、ということだったのかもしれません。

異邦人キリスト者とともにいたユダヤ人キリスト者の悩みを想像すると、自分たちは律法を大切にするように厳しくしつけられてきた、いまさらそれを変えることはなかなか難しい、自分たちが律法を大切にしてしまうことを異邦人キリスト者たちはどう思うだろうか、いっそのこと食卓を別にしてしまったほうが、お互いに自由なのではないか、などなど。

割礼を最重要課題と考えないという結論は、割礼を最重要課題と考えていたユダヤ人キリスト者に向けられたもの、彼らをいさめるもの、と理解してしまいますが、「異邦人の間で神に立ち返る者たちを悩ませてはいけません」ということですから、悩んでいたのは、異邦人キリスト者のほうですね。

この会議の本質的な問題は、今日の教会においても新鮮です。具体的な課題は時代とともに変わりますが、原則は同じでしょう。もっとも大切なものとそうでないものを区別して、もっとも大切なものだけを大切にし、そうでないものは自由に考える、互いの違いをそのままに受け入れる、ということです。悩ませない、煩わせない、ということ。教会はこののち、さまざまな文化との出会いによって、さらに議論を深めていきます。

こういうわけで、いつまでも残るのは信仰と希望と愛、これら三つです。その中で一番すぐれているのは愛です。愛を追い求めなさい。(第一コリント13・13,14・1)

月末を迎え、例月通りの作業、先生たちの賃金台帳、社会保険料、所得税、地方税の支払い、活動費や委員会助成金、各教会への協力金、援助金、世界宣教献金、開拓伝道献金などなどの集計と分配、送金作業、帳簿の整理など、昨日でほぼ完了しました。時間はかかりますが、このような作業はなかなか楽しいことです、というかいやいややっていては余計にストレスですから、喜びをもって取り組むということを心しています(笑)。

私たちの団体が社会保険制度を導入したのが、いまから30年前です。そのとき中心になって整えてくださった方が先週召天されました。県職として社会に仕えてこられた方です。寡黙ななかに篤い信仰をもった方でした。財務委員、給与審議委員として長くご奉仕くださいました。団体総会で団体会計を報告くださるときには、静かな声でひとつひとつの数字を読み上げていかれました。在りし日の姿が偲ばれます。ご遺族の慰めを祈ります。