主ご自身があなたに先立って進まれる

静まりの時 申命記31・1~8
日付:2023年04月27日(木)

主ご自身があなたに先立って進まれる。主があなたとともにおられる。主はあなたを見放さず、あなたを見捨てない。恐れてはならない。おののいてはならない。
(申命記31・8)

 モーセは120才になりました。体力的にもこれ以上イスラエルとともに旅を続けることはできません。体力の低下もさることながら神さまから約束の地に入るのはあなたではない、と告げられています。モーセは次の指導者ヨシュアにバトンタッチをします。
 まず民全体に向かって語ります。自分はここまでである、ヨルダン川を渡ることはできない、しかし神さまご自身はあなたに先立って進まれる、神さまはあなたとともにおられる、だから私に替わってあなたがたを導くのはヨシュアである、と。
 次にヨシュアに向かって語ります。全イスラエルのまえで語ります。強くあれ、雄々しくあれ、と。民を導くのはあなただ、約束の地に入るのはあなたである、あなたがヨルダン川を渡るのだ、と。

 モーセがイスラエルの民に語り掛けるとき、5節では「あなたがた」となっていますが、そのほかは「あなた」と単数になっています。集合人格概念という考え方があるそうです。イスラエルの人びとをまるで一人の人格を持った存在のようにとらえる、ということでしょうか。集団を一つの人格としてとらえていく、考えていく、扱う、ということは、今日では「法人」という言葉がありますが、それにも通じることかもしれません。
 しかし当然複数ですからさまざまな意見があります。さまざまな意見はあるけれども、それを一つの人格としてとらえていく。そこには、話し合い、つまり他者の意見を聞き、自分の意見を述べ、互いに主張するところは主張し、しかし折れあいながら一つにまとまっていく、ひとたび一つの結論が出たならば、たとえ自分の意見がそれでないとしても、その結論に従っていく、という心が必要となってきます。
 教会もそのような取り組みが大切である、ということですが、それだけではありません。意見に折り合いをつけていく、ということの基準は一体なんであるのか。多数決なのか。理性的な論理の構築なのか。もちろんそれらも大切ですが、教会ではそれ以上に、神さまのお心、聖書の言葉、教理基準、そしてそれらをはぐくんだ歴史が重要なこととなってきます。どんなに多数の意見であっても、どんなに論理的に正しいことに見えても、神さまの御心であるかどうか、聖書はどのように語っているのか、教理ではどのように考えられてきたのか。歴史の中ではどんな考え方をしたのか。それらが大切なこととなるのです。
 歴史ということを大切にする。それはいま生きている人間の意見だけではなく、天に帰った先輩の信仰者たちの意見を大切に聞く、ということです。死人に口なし、ではなく、死は終わりではないとの信仰を持っているのですから、天に帰られた方々の意見を尊重することは当然のことでしょう。
 イスラエルは、過ぎ越しの祭りなど、先祖がたどった信仰の歩みを繰り返すことによって「あなた」と単数で呼ばれた一つの人格として歩んでいきます。

 イスラエルをエジプトから脱出させた偉大な指導者モーセは、しかし約束の地には入りませんでした。神さまから入れないと語られたのです。入れないこと。それを冷静に受け止めました。そして後継者にあとのことを託します。モーセは120歳で天に帰っていきます。聖書はこの時のモーセについて、目はかすまず、気力も衰えていなかった、と語ります(申命記34・7)。ヨシュアに後を託したことの背景に高齢による体力の限界があったことは想像されますが、しかし聖書はわざわざ、体力の限界による後継者への交替ではないことを強調しているかのようです。まだまだやれるのだけれども体がいうことをきかないのでここらで交替します、というのではないのです。神さまがお決めになったことだからである、というのです。

 日本全体もそうですが、キリスト教界でも高齢化が進んでいます。信徒の高齢化もさることながら、教職者の高齢化は大きな課題です。私たちの小さな団体も、教職者の高齢化とそれに伴う教職者不足が課題であるとともに問題でもあります。若い人材を育てることが大きな祈りの焦点となっています。大きな団体でも人材不足から、無牧化や兼牧化が進んでいます。
 人材の確保ですが、正確には人がいないわけではないのです。人はいるけれども人材がない、ということなのです。ともに神学校で学んだ友人たちの幾人もが牧会を離れている現実があります。そこにはさまざまな理由がありますので、一概に論じることはできませんが、せっかく神さまに召されたのに、私は残念でなりません。自分のことを棚に上げて言うのですが、教会という現場で要求されること、にこたえることのできる人材が少ない、ということなのです。
 伝道者も人間ですから、つまり神さまではありませんから、あるいは神ではないということを誰よりも知っているものですから、限界があります。いずれにせよ、この問題は、教職者だけが考えることではなく、教会全体が考えなければならない課題です。
 カトリック教会でのことですが、あるとき若い司祭さんが、ミサの中で短い説教をされていました。そのとき左右には老齢な司祭が、手をかざして祈る姿がありました。若い司祭さんとしてはちょっと話しづらいような感じもしましたが(笑)、そこには若い人材を育てようという教会のあり方を見たような気がしました。

彼らはヨシュアに答えた。「あなたが私たちに命じたことは、何でも行います。あなたが遣わすところには、どこでも参ります。私たちは、あらゆる点でモーセに聞き従ったように、あなたに聞き従います。どうかあなたの神、主が、モーセとともにおられたように、あなたとともにおられますように。(ヨシュア1・16、17)