わたしは、わたしが主であることを知る心を彼らに与える

静まりの時 エレミヤ24・5~7
日付:2023年04月17日(月)

 イスラエルの神、主はこう言う。
 わたしは、この場所からカルデア人の地に送ったユダの捕囚の民を、この良いいちじくのように、良いものであると見なそう。
 わたしは、彼らを幸せにしようと彼らに目をかける。彼らをこの地に帰らせ、建て直して、壊すことなく、植えて、引き抜くことはない。
 わたしは、わたしが主であることを知る心を彼らに与える。彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。彼らが心のすべてをもってわたしに立ち返るからである。
(エレミヤ24・5~7)

 神さまに対して罪を犯したイスラエル。いま捕囚の苦しみの中にあります。そのイスラエルに向かって神さまはエレミヤを通して語られました。「この良いいちじくのように、良いものであると見なそう」「彼らを幸せにしようと彼らに目をかける」「彼らをこの地に帰らせ、建て直し、壊すことなく、植えて、引き抜くことはない」。真実の神さまの愛は、罪を犯す者にもおよびます。

 「わたしは、わたしが主であることを知る心を彼らに与える」と言われました。人間が神さまを知ること。神さまが主であることを知ること。そのような心を神さまが与えると、神さまご自身が語られました。神さまへの信仰の心も、神さまが与えて下さるものなのです。神さまが与えてくださらなければ、信仰の心は生まれないのです。こうして信仰の心が私に与えられているということは、そこに神さまの御手が働ているということなのです。

「彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。彼らが心のすべてをもってわたしに立ち返るからである」。神さまから与えられた信仰の心をもって、その心のすべてをもって神さまに立ち返る。それは信仰の心が与えられるための条件というよりも、神さまから与えられた信仰の心には、おのずとそうせざるを得ない力が秘めているからである、ということでしょう。あるいは、神さまの立ち返る、ということが、信仰の心が与えられていることの証しとなる、という意味かもしれません。
 罪びとでしかなかった私たちでしたが、神さまのものとされました。そのありがたさを思えば思うほどに、神さまに立ち返ることを喜びとします。

 昨日は召天者記念礼拝が行われました。コロナ禍で3年ほど難しかったのですが、今年は久しぶりに開催することとなりました。天に帰られた兄弟姉妹たちを覚えて、主への礼拝をおささげしました。ずいぶんご無沙汰していた方々にお出会いすることもでき感謝でした。しばらくの間にお身体に変化のあるかたも幾人かおられました。すこやかな歩みのためにお祈りしたいと思います。
 昨日週報や各会でも報告がありましたが、今日は大切な話し合いが行われます。神さまの祝福が豊かにありますようにお祈りしましょう。