私たちの推薦状はあなたがたです

静まりの時 第二コリント3・1~3
日付:2023年04月18日(火)

2 私たちの推薦状はあなたがたです。それは私たちの心に書き記されていて、すべての人に知られ、また読まれています。
3 あなたがたが、私たちの奉仕の結果としてのキリストの手紙であることは、明らかです。それは、墨によってではなく生ける神の御霊によって、石の板にではなく人の心の板に書き記されたものです。
(第二コリント3・2~3)

 推薦状を書いていただいたことがあるでしょうか。また誰かのために推薦状を書いてあげたことがあるでしょうか。
 推薦するわけですから、推薦できるだけの根拠や行い、あり方があって、その事実に基づいて推薦状は書かれることだと思いますが、いろいろなところではちょっと儀礼的というか、形だけの推薦状も多く存在するのではないか、と思います。うっかり推薦してしまった、ということであとあと困ったことになるということも起こり得るわけですから、推薦するならば、それだけの根拠となる歴史や人間関係が必要ですね。
 パウロは「私たちの推薦状はあなたがたです」と語りました。この手紙を受け取ったコリントの教会の人びとはどんなにうれしかったことでしょう。コリントの教会の信徒には、パウロが胸を張ってこのように言えるだけの立派な人たちが集まっていたのでしょう・・・。
 はて、コリントの教会の信徒たちは、推薦状となるだけのいわゆる立派な人たちだったのかな?とここで少なからず疑問を持つのは私だけでしょうか。

 少し話を整理しなければなりません。ここでコリント教会が推薦されているのではありません。推薦されている対象はパウロたちです。その推薦状となるのが、コリントの教会の信徒である、とパウロ自身が語っているのです。パウロは、12弟子のひとりではありませんでした。教会が始まった当初は、教会に対しては迫害者でした。そのパウロがイエスさまに出会っていただき回心し伝道者となったのです。ですからパウロのことを信用するのは教会にとってはなかなか難しいことでした。そのことではパウロ自身たいそう苦慮しています。ガラテヤ書を読むとそのことがよくわかります。
 ですからパウロは自分を推薦しなければなりませんでした。確かにキリストの弟子なのだ、使徒なのだと証明しなければならない場面が数多くあったのです。
 そんな中でパウロは「私たちの推薦状はあなたがたです」と語ったのです。私は確かにキリストの伝道者です。ほらコリントの信徒たちを見てください、と。当然、いかにコリントの人たちが素晴らしい信仰者であるのか、ということが前提とされていると想像します。しかし実際はコリントの人たちは、第一の手紙を読めばわかるように、さまざまな問題を抱えていた人たちでした。もし自分のいわゆる確かさを証明するために推薦状とするには、ずいぶんな人たちです。しかし、パウロは「私たちの推薦状はあなたがたです」と言い切るのです。

「あなたがたが、私たちの奉仕の結果としてのキリストの手紙であることは、明らかです。それは、墨によってではなく生ける神の御霊によって、石の板にではなく人の心の板に書き記されたものです。」(3)

 パウロが、自分の推薦状であると語ったコリント教会の信徒たちは、いわゆる立派な生き方ができたことではなかったかもしれません。しかし彼らは、まさに「キリストの手紙」であったのです。それは「墨によってではなく生ける神の御霊によって、石の板にではなく人の心の板に書き記されたもの」でした。かつてモーセが神さまから律法をいただいた石の板。そのような律法ではなく、「人の心の板に書き記されたもの」である、というのです。どのような行いの中にあったとしても、キリストによって書き記されたのが、あなたがたである、というのでしょう。
 コリントの信徒たちが謙遜であれば、きっとこう言ったと思うのです。パウロ先生、確かに私たちはあなたの宣教によってイエスさまを信じました。しかし私たちは依然とんでもない者たちです。イエスさまの喜ばれるように歩もうとは願っているのです、しかし実際はそうはならないのです。弱さがあるのです。こんなものを推薦状などと呼ばないでください。ますますあなたの立場が悪くなるではありませんか、と。しかしパウロは語り掛けました。「私たちの推薦状はあなたがたです」。

 パウロはこの第二コリントの中で次のように語っています。

「ですから、だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(5・17)

 キリストのうちにあるかどうか。キリストのうちにあるなら、どのような人であっても、新しく造られた者である。しかしどんなに立派な行いがあったとしても、キリストのうちに「ない」、キリストが内におられない、あるいはキリストのうちに自分自身を置こうとしない、ならば、未だ新しく造られた者となっていないのだ。コリントの信徒たちよ、あなたがたには立派な行いはないかもしれない、むしろ一言も二言も言わなければならないことだらけかもしれない。しかしあなたがたが確かにイエスさまを信じて、イエスさまを共に歩もうとしていることを私は知っている、あなたがたも新しく造られた者なのだ、と。

 コリントの信徒たちを、自らの推薦状であると言い切ることに、パウロの信仰の在り方が明らかにされているように思います。私たちはだれを推薦状とするでしょうか。

 昨日は滋賀超教派牧師会がオンラインで行われ楽しい交わりの時をいただきました。スポーツミニストリーについてのお話しやhi-b.a(ハイ・ビー・エー、ハイスクール・ボーン・アゲナーズ、だったでしょうか)からのお話しもありました。この春で関東のほうに異動となった先生もおられ、ちょっとさみしい報告もありました。コロナ禍での取り組みについても分かち合われました。ウイズコロナとしての宣教の前進について祈りました。すでに聖餐式を実施しているところも多くあります。飲食については今しばらく慎重な感じですね。マスクについては、お願いの段階から個人の判断というところも多くなっているようです。祈りの課題を分かち合い、ともに祈りました。諸教会の祝福と滋賀県での福音の前進のために祈りました。