静まりの時 エレミヤ50・17~20
日付:2023年04月19日(水)
その日、その時──主のことば──
イスラエルの咎を探しても、それはない。
ユダの罪も見つからない。
わたしが残す者を、わたしが赦すからだ。
(エレミヤ50・20)
イスラエルは異教の国バビロンの侵略を受け滅んでしまいました。おもだった人びとはバビロンに連れていかれました。その原因を聖書は、イスラエルが罪を犯したからである、と語ります。
しかしイスラエルを苦しめたバビロンに対しても神さまはさばきを行われます。バビロンは一時神さまの「道具」となったのですが、しかしそのバビロンを神さまはさばかれるのです。不思議といえば不思議なことです。とにかく神さまは義である、ということでしょう。
そうして「その日、その時」がやってきます。「イスラエルの咎を探しても、それはない。ユダの罪も見つからない」という日、時がやってくるとエレミヤは語りました。回復の時と言えるでしょう。そのような時がやってくるのです。神さまはそのような日、そのような時を備えていてくださるのです。
それは「わたしが残す者を、わたしが赦すからだ」と言われます。この「わたしが残す者」というのは、共同訳2018では「私が生き残らせた人々」とあります。バビロン捕囚を生き残った人、ということだと思います。しかし同時にそれはバビロンにも連れていかれることなく、祖国の土地で、亡国の民となった人びとの生き残りということも言えるかもしれません。
罪、咎はもはや見つからない、それは神さまが赦してくださるからだ、と聖書は語ります。神さまがひとたび赦されるならば、罪や咎はもう見つからなくなる、というのです。罪は神さまに赦されることによって消えてなくなってしまうということでしょう。少なくとも、神さまはそのようにご覧になってくださる、たとえ人間の目には見えたとしても、神さまはもはや罪は見つからない、としてくださる、ということでしょう。
「赦し」は「許し」ではありません。罪を犯すことを「許し」てしまったら、それこそ「大いに罪を犯そう」(ローマ6・1)ということになってしまうでしょう。罪は「許される」ことではなく、神さまによって「赦されなければならない」ことなのです。
「赦し」は神さまだけがなすことが可能です。なぜなら神さまだけが本当にさばくことができるお方だからです。さばくことのできない者から、赦します、などと言われたところで何の意味もありません。そういう意味では、人間が「赦します」、などというのは、おかしなことであり、僭越なこと、自らを神としている越権行為でもあると言えるでしょう。
神さまの赦しは「罪が見つからない」とまで言うことのできる徹底したものです。神さまからの赦しを頂いた者は、たとえ人間が罪を追及しても、神さまの前に赦しをいただいているのですから平安です。その平安は、自らの罪を告白し、悔い改めることのできる平安です。自らの罪を告白できない、自分には罪はないと言い張るのは、結局神さまからの赦しの言葉を頂いていない、ということでしょう。まことの平安に生きようとする私たちに必要なことは、神さまからの赦しの言葉です。
「イエスは言われた。『わたしもあなたにさばきを下さない。行きなさい。これからは、決して罪を犯してはなりません。』(ヨハネ8・11)
この神さまからの赦しの言葉を確かに聞かなければ、いつまでたっても罪は私の中にとどまり続けます。
1 幸いなことよ
その背きを赦され罪をおおわれた人は。
2 幸いなことよ
主が咎をお認めにならず
その霊に欺きがない人は。
3 私が黙っていたとき私の骨は疲れきり
私は一日中うめきました。
4 昼も夜も御手が私の上に重くのしかかり
骨の髄さえ夏の日照りで乾ききったからです。
セラ
5 私は自分の罪をあなたに知らせ
自分の咎を隠しませんでした。
私は言いました。
「私の背きを主に告白しよう」と。
するとあなたは私の罪のとがめを
赦してくださいました。セラ
6 それゆえ敬虔な人はみな祈ります。
あなたに向かってあなたがおられるうちに。
大水は濁流となっても彼のところに届きません。
7 あなたは私の隠れ場。
あなたは苦しみから私を守り
救いの歓声で私を囲んでくださいます。セラ
8 私はあなたが行く道で
あなたを教えあなたを諭そう。
あなたに目を留め助言を与えよう。
9 あなたがたは
分別のない馬やらばのようであってはならない。
くつわや手綱そうした馬具で強いるのでなければ
それらはあなたの近くには来ない。
10 悪しき者は心の痛みが多い。
しかし主に信頼する者は
恵みがその人を囲んでいる。
11 正しい者たち主を喜び楽しめ。
すべて心の直ぐな人たちよ喜びの声をあげよ。
(詩篇32編)
幸いに生きるためには何が必要でしょう。経済的に豊かになること、人間関係が良好になること、自分の思い通りに自己実現すること、病気が癒されること、問題が解決されること、良い地位に手にすること、そういうことも必要でしょうけれども、聖書はそれらをどうしても必要なこととして語らないのです。幸いに生きるためにどうしても必要なことはただ一つ。罪の赦しを神さまからいただくということです。
そのためには、この詩篇の著者のように自らの罪に対して「私の骨は疲れきり 私は一日中うめきました」「昼も夜も御手が私の上に重くのしかかり 骨の髄さえ夏の日照りで乾ききったからです」という経験がどうしても必要なのです。罪を悲しむ、自らの罪に苦しむ、という経験です。そして「私は自分の罪をあなたに知らせ 自分の咎を隠しませんでした。私は言いました。『私の背きを主に告白しよう』と。するとあなたは私の罪のとがめを 赦してくださいました」という信仰の経験が必要なのです。
この神さまからの赦しの経験、もはや罪は見つからない、と語ってくださる神さまとの出会いが、祈りを生み出し、信頼を生み出し、喜びを、賛美を生み出します。
このところ団体のひとつの教会が不動産を購入するということで奔走していたのですが、月曜日に県庁に送った書類が昨日の午後には届いているということですので、今日の午前中に電話で担当の方とお話ししたいと思っています。それで法人の手続きが前進することを願っています。スムーズに進みますようにお祈りいただければ感謝です。明日から東北へ派遣されている宣教師が本部に滞在する関係で、本部とヘブロンのガスの開栓手続きに妻が立ち会ってくれました。ヘブロンのお風呂は灯油だったのですが、使わないうちに壊れてしまいました。ガスに切り替えるとよいと業者の方からアドバイスをいただきました。建ってから35年ですから無理もないですね。はなれのお風呂は大丈夫なので、そちらを利用していただくこととなります。
骨折で入院されていたご高齢の姉妹が退院され自宅療養が始まっています。ご家族ともども主の支えを祈ります。入院、リハビリなどが続く方々のためにも覚えて祈ります。車いすに移動できたことのお知らせもいただきましたが、そのような機会が増やされることを祈ります。
ジャーマンアイリスの鉢の移動の知らせもいただきました。今年も、ジャーマンアイリスの花が教会の駐車場に飾られます。一人でも多くの方が教会にご来会下さればと祈られています。
昨日は撮りためたビデオで、NHKのアナザーストーリーというのを観ていたのですが、クイーンのライブエイドでの出演のいきさつについて語られていました。クイーンはよく聴きました。「ジャズ」までのアルバムはみな持っていたのですが、もう捨ててしまいました。