主は彼の前を通り過ぎるとき

静まりの時 出エジプト34・1~9
日付:2023年04月20日(木)

 主は雲の中にあって降りて来られ、 彼とともにそこに立って、主の名を宣言された。主は彼の前を通り過ぎるとき、こう宣言された。
「主、主は、あわれみ深く、情け深い神。怒るのに遅く、恵みとまことに富み、恵みを千代まで保ち、咎と背きと罪を赦す。しかし、罰すべき者を必ず罰して、父の咎を子に、さらに子の子に、三代、四代に報いる者である。」
 モーセは急いで地にひざまずき、ひれ伏した。彼は言った。
「ああ、主よ。もし私がみこころにかなっているのでしたら、どうか主が私たちのただ中にいて、進んでくださいますように。確かに、この民はうなじを固くする民ですが、どうか私たちの咎と罪を赦し、私たちをご自分の所有としてくださいますように。」
(出エジプト34・5~9)

 雲の中にあって降りてこられる主。その主がモーセとともに立たれます。そしてご自身の名、主の名を宣言されました。口語訳などでは「宣べられた」と訳されています。私たちは、主ご自身がその名を告げてくださるので、主を知ることができます。(宣言するのは神さまであって人間ではありません)
 その宣べられた内容は、主は愛の神、赦しの神である、ということ。しかし罰すべき者は必ず罰する神である、ということでした。恵みは「千代」、罰は「三代、四代」ということですから、神さまは恵みのほうに重心を置いておられることは明らかです。牧師が千回メッセージをするとすれば、恵みのメッセージは千回、さばきのメッセージは3,4回ということでしょうか。
 これを聴いたモーセはひざまずき、ひれ伏します。そして祈るのです。「どうか私たちのただ中にいてください、進んでください」「どうか私たちの咎と罪を赦してください」。「私たちをご自分の所有としてください」と。

 ここで神さまが宣言されるときの姿に注目したいと思います。

「主は彼の前を通り過ぎるとき、こう宣言された」(6)。

 旧約聖書において、神さまが人間にお出会い下さる場面で、時々「通り過ぎる」という表現が出てきます(第一列王記19・11)。正面に立たれるのではなく、通り過ぎてゆかれる。それで人間は神さまの、横顔、を見ることになります。人間が直接主を見ると人間は死んでしまうと、神さまへの恐れを確かに持った人も語っています(イザヤ6・5)。
 プロフィール、という言葉がありますが、直訳としては「横顔」とあります。プロファイリングというと、何やら、羊たちの沈黙、を思い起こします。じかに触れることはできないが、様々な情報から、その実態に迫る、というようなことでしょうか。

 復活の朝、エマオで向かう二人の弟子。そこにイエスさまは伴ってくださいました。二人にはそれがイエスさまだとは分かりません。

「彼らは目的の村の近くに来たが、イエスはもっと先まで行きそうな様子であった。」(ルカ24・28)

 通り過ぎようとされる方がそこにおられました。しかし彼らは、一緒にお泊りください、と強く願います。「ああ、主よ。もし私がみこころにかなっているのでしたら、どうか主が私たちのただ中にいて、進んでくださいますように」と語ったモーセのように。そこで家の中に入って囲んだ食卓において神を知ることになりました。

 団体の一つの教会の不動産購入における法人手続きで、こちらから電話をしようと思っていたのですが、県のほうからお電話をいただくことになりました。いくつかの問いに対する説明文書と追加資料を送ってください、ということでしたので早速整えて送付しました。どうかスムーズに進みますように。

 昨日、15年ほど使ってきたテレビが壊れました。赤いランプが点滅して、いっこうにリモコンに反応しません。再起動すればよいとのネット情報から、数回試したのですが、回復しませんでした。
 もともといただいたものだったので、そろそろ寿命かな、とあきらめました。数年前に死んだ妻の父の遺品としてもらった24インチのテレビがほこりをかぶった状態でありましたので、ちょっとコンパクトですが、これを利用することになりました。よかったです。
 昔の話ですが、14インチのブラウン管テレビを一家6人で利用していることがありました。あるときそのテレビを観ていると画面がだんだん小さくなっていきました。そしてぷつっと消えてしまいました。と、同時になにやら焦げたにおいが漂ってきます。テレビの後ろがめらめらと明るく揺らいでいます。のぞくと炎が見えました。あわてて発熱していたコンセントを何とか抜きました。いまとなってはどうやって炎を消したのか記憶にありませんが、恐怖が過ぎ去ると笑いがこみあげてきて、なかなかできない経験をしたと、ちょっとした満足感があったことを覚えています。テレビの横には消火器が必要ですね。