静まりの時 詩篇114・1~8
日付:2023年04月21日(金)
1 イスラエルがエジプトから
ヤコブの家がことばの異なる民のうちから
出て来たとき
2 ユダは神の聖所となり
イスラエルは神の領地となった。
・・・
8 神は岩を水の潤う沢に変えられた。
硬い岩を水のあふれる泉に。
(詩篇114・1~8)
「ことばの異なる民」。エジプトのことをこのように表現しています。確かにイスラエルとエジプトでは言語が違うのですが、この文章に込められた意味はもう少し深いものを感じます。
ことばが異なる。それは文化、歴史、宗教など、その背景にあるものがことごとく異なっている、ということかもしれません。
そもそもことばが異なることになったのは、創世記11章に記されている、バベルの塔の出来事からです。人間が神さまにまさって「名をあげよう」としたので、神さまは人間の「ことばを混乱させ、互いの話しことばが通じないように」されたのです。人間が、神さまを見失い、自己中心に生きようとするところには、混乱が生まれ、ことばが通じないということが起こるのです。
ことばが通じない、ということは、人間の高慢のなせる業である。こんにち様々なところでことばが通じない、ということが起こっています。互いに自己主張をしあって、相手のことばに耳を傾けようとしません。自分の願望ばかりが先に立ち、ともに生きる人たちのことばが耳に入らなくなってしまいます。
アブラハムがそうであったように、またモーセやモーセによって導かれたイスラエルの民がそうであったように、そのような「ことばの異なる民」のうちから「出て行く」ということ。そうして神さまが示される地に住むということ。そこに解決が生まれるのではないか、と思います。
神さまが示される地は、もともと「水の潤う沢」「水のあふれる泉」だったのではありません。ことばの異なる民のうちから出て来たので、その神さまが、その示された地を「水の潤う沢」「水のあふれる泉」にされたのです。イスラエルの民が、神さまに従って出発したので、そのような民が入っていったところを、神さまは水の潤う地にしてくださったのです。
そうすると、幸いに生きるためには、この「出る」ということが、大切なポイントではないかと思います。これは現実から逃避する、ということではありません。エジプトから出発したイスラエルの民は、現実逃避したのではありません。エジプトを後にして踏み出したのは荒野の旅でした。民は、たびたびその荒野からエジプトに戻りたい、すなわち現実逃避したいと嘆きました。しかし神さまの励ましの中、彼らは荒野の旅を続けました。現実逃避の誘惑から守られ、常に現実に生き続けたのです。
出る。それは旅人として生きるということではないでしょうか。私たちは朝起きた時に一日に「出発」します。困難があっても、いつも希望をもって主の再臨を待ち望みます。この世だけの命に生きているのではなく、永遠の命、御国への希望に生きています。今あることは、どんなに困難に見えても、一時のことである、と知らされています(コリント10・13)。必ず将来があることを信じているのです。
わたし自身、あなたがたのために立てている計画をよく知っている──主のことば──。それはわざわいではなく平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。(エレミヤ29・11)
ですから今日も新しい気持ちをもって新しい一日に出発します。水の潤う地が待っているから出発するというのではなく、出発する私の行く先々を神さまが「水の潤う地」に変えてくださることを信じて出発します。
昨日は、久しぶりに洗車をしました。洗車はなかなか重労働なところがあるので、病気をしてからは、できるだけしないで済むように考えてきましたが、やってみようと思えるほどに身体もずいぶん良くなったのだと思います。黄砂がひどくてせざるを得ない、ということに気づいたからかもしれませんが。ワイパーを動かすとかえって見えなくなっていた、というのはちょっと言いすぎでしょうか。
義父が免許を返納した時期に譲り受けたエブリイは初年度登録から20年が経っていて、よく見るとところどころへこんでいて錆が出ているところがありますが、まだまだ元気でよく走ります。とても重宝していますので大事にしなければなりません。また病気後、運転中に発作を起こしても、同乗者やあたりに迷惑が掛かりにくいであろう自動車にしなさい、お父さんが死んでも私らは生きていたい、ということで家族に買ってもらったインプレッサは、中古ですがコーティングがしてありなかなかきれいなのです。それでも黄砂がたまって黄土色といいますかバーントアンバーといいますか、そのような垢があちらこちらにこびりついていました。妻がかいがいしく手伝ってくれたので、思いのほか作業は短時間で済みました。