すべては信仰によるのです

静まりの時 ローマ4・13~17
日付:2023年03月30日(木)

そのようなわけで、すべては信仰によるのです。それは、事が恵みによるようになるためです。こうして、約束がすべての子孫に、すなわち、律法を持つ人々だけでなく、アブラハムの信仰に倣う人々にも保証されるのです。アブラハムは、私たちすべての者の父です。
(ローマ4・16)

共同訳2018では

「従って、相続人となることは、信仰によるのです。こうして、恵みによって、アブラハムのすべての子孫、つまり、律法に頼る者だけでなく、彼の信仰に従う者も、確実に約束にあずかれるのです。アブラハムは、神の前で、私たちすべての者の父であって、」
(ローマ4・16、共同訳2018)

 私たちユダヤ人でない者にとっては、律法によらないのだ、と言われれば、そうなんだ、と単純に思えるかもしれません。しかしユダヤの人びとにとっては、律法が人生の土台なのですから、律法によらないと言われても、そうやすやすと受け入れられはしないでしょう。むしろ怒りさえ覚えるのかもしれません。
 ただ、律法によらないと語るこのパウロもユダヤ人です。律法の大切さは誰よりも知っているのです。そのパウロが、律法によらない、と語っているのです。私たちも、幼い時から教え込まれ、それによって人生の土台が築かれてきた、と思うようなものを否定されるとすれば、とんでもないことでしょう。
 律法によらない、では何によるのか、それは約束によるのだ、とパウロは語りました。そもそも聖書をよく読んでみると、最初から律法があったわけではありません。最初からあったのは、神さまのお約束でしょう。約束と言っても、私たちが日ごろ使う約束という意味とはずいぶん違います。私たちが日ごろ使う約束は、「双方」が守るということによって成り立ちます。それに対して、神さまの約束は、神さまがひたすら守り通される約束です。人間はつねに不誠実なのですが、それにもかかわらず一方的に守られる。この約束によるということは、一方的な神さまの恵みによることになります。
 人間は、この神さまの一方的な約束を、ただ「信じる」ということ。それによって、「相続人」としていただける。アブラハムが預かったような、祝福の道を歩むことができるようになるのです。すべては、信仰によるのです。

 教会は、この「すべては信仰による」という言葉の上に立っています。そうでないと教会が神さまの恵みを語れなくなってしまうのです。どんなに活発な活動があり、多くの人が集まったとしても、神さまの恵みが語られず、人間の業に終始しているならば、そこはイエスさまの教会ではありません。
 すべては信仰によるのです。一方的な愛を注いでいてくださる神さまへの信仰、信頼によるのです。信仰生活においては、結局そのことだけが重要なことなのです。