静まりの時 ローマ4・1~8
日付:2023年03月29日(水)
もしアブラハムが行いによって義と認められたのであれば、彼は誇ることができます。しかし、神の御前ではそうではありません。
(ローマ4・2)
共同訳2018では、
「もし、彼が行いによって義とされたのであれば、誇ってもよいが、神の前ではそれはできません。」
「義と認められる」のか「義とされる」のか。この違いは小さくありません。擬制的に認められるのか。それとも、実質的に義とされるのか。生涯罪びとであるのだから、その罪びとが義と「なる」ことは、おかしいことなので、義と「認められる」のかもしれません。しかし神さまの圧倒的な恵みの中で、実質的に義と「される」ということも、キリスト者においては大切なことではないか、とも思えてきます。
もちろん義と「された」と自分自身が確認したとすれば、それは傲慢でしょう。私たちは、自らがどこまでも罪びとであることを告白し続けるのです。しかしそのようなへりくだりの生き方そのものが、義と「される」ことの証拠であるとすれば、義とされることもまた現実的なことでしょう。
「神の御前ではそうではありません」「神の前ではそれはできません」。自らが義であると誇ることは、もしかすれば人間の前では可能かもしれません。しかし神さまの前ではそうではない、それはできないことである、といいます。私たちはみな神さまの前に問われているのです。
イエスさまを信じたときから、自らの罪性との戦いが始まりました。自らの罪が消滅することはないのですから、胸を張って私は義人ですと主張することはできません。もし胸を張って私は義人です、と主張したとすれば、それは自分を知らないか、神さまを知らないかのいずれかでしょう。
自らが罪びとであること。そのことを学び続ける。そしてそのような私に神さまは、十字架と復活の愛を語り続けてくださる。私たちは、その愛の言葉を聞き続ける。それが信仰生活なのだと思います。
まことに義と「される」ということは、結局、自らが神さまの前に如何に罪びとであるかということを知り続けるところに成就することなのでしょう。