キリストが私のうちに生きておられるのです

静まりの時 ガラテヤ2・15~21
日付:2023年03月31日(金)

16 しかし、人は律法を行うことによってではなく、ただイエス・キリストを信じることによって義と認められると知って、私たちもキリスト・イエスを信じました。律法を行うことによってではなく、キリストを信じることによって義と認められるためです。というのは、肉なる者はだれも、律法を行うことによっては義と認められないからです。
・・・
19 しかし私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストとともに十字架につけられました。
20 もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。今私が肉において生きているいのちは、私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子に対する信仰によるのです。
(ガラテヤ2・16、19,20)

 共同訳2018では

16 しかし、人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、ただイエス・キリストの真実によるのだということを知って、私たちもキリスト・イエスを信じました。これは、律法の行いによってではなく、キリストの真実によって義としていただくためです。なぜなら、律法の行いによっては、誰一人として義とされないからです。
・・・
19 私は神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。
20 生きているのは、もはや私ではありません。キリストが私の内に生きておられるのです。私が今、肉において生きているのは、私を愛し、私のためにご自身を献げられた神の子の真実によるものです。
(ガラテヤ2・16,19,20、共同訳2018)

 イエスさまに対する(私たちの)信仰によるのか、それともイエスさま(ご自身)の真実によるのか。すでに数日前に書いた通りです。

「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(19,20)

 神さまに救っていただいたのは、「神に生きるため」(19)である、とパウロは語ります。決して罪に生きるためではない。だから罪から離れて、神さまの喜ばれるように歩もう、ということだと思います。
 それはいわゆる罪の行いから離れる、ということだと思いますが、それだけではありません。罪というのがそもそも、自己中心のこと、神さまを認めないこと、神さまよりも自分を中心にすること、ですから、たとえ罪の行いから離れる、といってもそれを自己中心的に行うならば、根本的な罪から離れていないことになります。
 聖書の信仰に生きる、ということは、もはや自分のいのちは、神さまのものである、ということを認めることです。自分はキリストとともに、あの二千年前の十字架につけられたのです。もはや自分は生きていない。私がこうして生きているのは、神さまによって生かされているのです。そのことを認めるということです。
 これは本当に自由な人生です。

 先週に団体総会が終わり、さっそく書記の先生が議事録を送ってくださいましたので、各教会に発送しました。教規の改正もありましたので、新しくなった教規も同封しました。以前は団体の会員数600部を作成して送付していたのですが、いまは代議員分のみとなりましたので、ずいぶん軽減されました。600部作成していた時は、子どもたちにも手伝ってもらって製本作業をしていたこともありました。
 今回、牧師給の定期昇給も承認されましたので、この4月からの給与明細、また、この時期雇用契約書も作成する必要があるので、あわせてお送りしました。先生方には安心して牧会伝道に励んでいただきたいと願っています。
 とりあえず総会の残務はこれで完了します。次週には法人報告関係の書類作成と発想をする予定です。文科省が京都に移るということで、なにか近くなったような気がします。それで包括団体の法人化が進むかどうかは未定ですが。
 ということで少し忙しくしている今週なのですが、礼拝堂のパソコンと、ついでに会計さんのパソコンを少しいじってみました。礼拝堂のパソコンはウインドウズ7なので、サポートが終了していることと、ライブ配信にプレゼン画面を挿入したいと思い、ウインドウズ11のパソコンを導入しました。中古ですが。先週は、ライブ配信の音声もおかしかったので、その辺も確認しました。会計さんが主に使用される事務室のパソコンは、ウインドウズ10だったのですが、うっかり11にバージョンアップしてしまいました。それで、メモリ増設と、HDDのSSD化をしてみました。少し早くなったような気もします。
 花粉症が、杉の最盛期が終わり少しマシな感じもしますが、まだまだ続ていますので、ヒノキ科のアレルギーもあるのかなと思い始めています。

静まりの時 ガラテヤ2・15~21
日付:2023年03月31日(金)

16 しかし、人は律法を行うことによってではなく、ただイエス・キリストを信じることによって義と認められると知って、私たちもキリスト・イエスを信じました。律法を行うことによってではなく、キリストを信じることによって義と認められるためです。というのは、肉なる者はだれも、律法を行うことによっては義と認められないからです。
・・・
19 しかし私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストとともに十字架につけられました。
20 もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。今私が肉において生きているいのちは、私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子に対する信仰によるのです。
(ガラテヤ2・16、19,20)

 共同訳2018では

16 しかし、人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、ただイエス・キリストの真実によるのだということを知って、私たちもキリスト・イエスを信じました。これは、律法の行いによってではなく、キリストの真実によって義としていただくためです。なぜなら、律法の行いによっては、誰一人として義とされないからです。
・・・
19 私は神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。
20 生きているのは、もはや私ではありません。キリストが私の内に生きておられるのです。私が今、肉において生きているのは、私を愛し、私のためにご自身を献げられた神の子の真実によるものです。
(ガラテヤ2・16,19,20、共同訳2018)

 イエスさまに対する(私たちの)信仰によるのか、それともイエスさま(ご自身)の真実によるのか。すでに数日前に書いた通りです。

「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(19,20)

 神さまに救っていただいたのは、「神に生きるため」(19)である、とパウロは語ります。決して罪に生きるためではない。だから罪から離れて、神さまの喜ばれるように歩もう、ということだと思います。
 それはいわゆる罪の行いから離れる、ということだと思いますが、それだけではありません。罪というのがそもそも、自己中心のこと、神さまを認めないこと、神さまよりも自分を中心にすること、ですから、たとえ罪の行いから離れる、といってもそれを自己中心的に行うならば、根本的な罪から離れていないことになります。
 聖書の信仰に生きる、ということは、もはや自分のいのちは、神さまのものである、ということを認めることです。自分はキリストとともに、あの二千年前の十字架につけられたのです。もはや自分は生きていない。私がこうして生きているのは、神さまによって生かされているのです。そのことを認めるということです。
 これは本当に自由な人生です。

 先週に団体総会が終わり、さっそく書記の先生が議事録を送ってくださいましたので、各教会に発送しました。教規の改正もありましたので、新しくなった教規も同封しました。以前は団体の会員数600部を作成して送付していたのですが、いまは代議員分のみとなりましたので、ずいぶん軽減されました。600部作成していた時は、子どもたちにも手伝ってもらって製本作業をしていたこともありました。
 今回、牧師給の定期昇給も承認されましたので、この4月からの給与明細、また、この時期雇用契約書も作成する必要があるので、あわせてお送りしました。先生方には安心して牧会伝道に励んでいただきたいと願っています。
 とりあえず総会の残務はこれで完了します。次週には法人報告関係の書類作成と発想をする予定です。文科省が京都に移るということで、なにか近くなったような気がします。それで包括団体の法人化が進むかどうかは未定ですが。
 ということで少し忙しくしている今週なのですが、礼拝堂のパソコンと、ついでに会計さんのパソコンを少しいじってみました。礼拝堂のパソコンはウインドウズ7なので、サポートが終了していることと、ライブ配信にプレゼン画面を挿入したいと思い、ウインドウズ11のパソコンを導入しました。中古ですが。先週は、ライブ配信の音声もおかしかったので、その辺も確認しました。会計さんが主に使用される事務室のパソコンは、ウインドウズ10だったのですが、うっかり11にバージョンアップしてしまいました。それで、メモリ増設と、HDDのSSD化をしてみました。少し早くなったような気もします。
 花粉症が、杉の最盛期が終わり少しマシな感じもしますが、まだまだ続ていますので、ヒノキ科のアレルギーもあるのかなと思い始めています。

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