静まりの時 ローマ3・27~31
日付:2023年03月28日(火)
それでは、私たちの誇りはどこにあるのでしょうか。それは取り除かれました。どのような種類の律法によってでしょうか。行いの律法でしょうか。いいえ、信仰の律法によってです。
(ローマ3・27)
いくつかの訳を比較してみましょう。
「それでは、私たちの誇りはどこにあるのでしょうか。それはすでに取り除かれました。どういう原理によってでしょうか。行いの原理によってでしょうか。そうではなく、信仰の原理によってです。」(新改訳第3版)
「すると、どこにわたしたちの誇があるのか。全くない。なんの法則によってか。行いの法則によってか。そうではなく、信仰の法則によってである。」(口語訳)
「では、人の誇りはどこにあるのか。それは取り除かれました。どんな法則によってか。行いの法則によるのか。そうではない。信仰の法則によってです。」
(新共同訳)
「では、誇りはどこにあるのか。それは取り去られました。どんな法則によってか。行いの法則によるのか。そうではない。信仰の法則によってです。」
(共同訳2018)
律法と訳されることの多い「ノモス」という言葉が、新改訳第3版では「原理」、口語訳や新共同訳、また共同訳2018では「法則」と訳されていましたが、新改訳2017では、律法と訳されています。
律法という言葉は、聖書の翻訳に際して新しく生まれたもので、もともと日本語になかった言葉だと思います。ギリシャ語の「ノモス」も、単純に「法律」「ルール」という意味の言葉なのだと思いますが、旧約聖書のヘブル語をギリシャ語に翻訳する時にこの「ノモス」を使ったことから、すこし固有名詞的な感じが生まれたのだと思います。おそらくこの27節の「ノモス」は、パウロとしては固有名詞的ではなく、単純にルールという意味で語っているのだろう、ということから、原理や法則と訳しているのだと思います。それに対して新改訳2017が「律法」と訳しているのには、何か意味があるのかもしれません。
イエスさまを信じる信仰をいただいたということは、「誇り」が取り除かれた人生へと招かれた、ということです。
私たちは誇り、すなわちプライドをもっているでしょうか。プライドにしがみついて生きているでしょうか。人前で、あるいは神さまの前で胸を張って誇れることをもって生きているのでしょうか。このプライドが傷つけられたり、否定されたり、低く評価されたりすると、腹を立てるでしょうか。メンツが汚されたといっては怒るのでしょうか。人間はなにがしかの誇りを持っていないと生きられないと思います。しかし、その誇りが取り除かれた、というのです。
本当にイエスさまを信じている人は、この誇りが取り除かれているはずなのです。誇りを失っているのではありません。自分で築いた誇りを取り除いていただいたのです。もはや自分の力で誇りを築く必要はなくなったのです。自分の経験や賢さ、立派さ、よい行いによってプライドを形づくる必要がなくなったのです。あるいはそういう誇りにしがみついて生きることから解放されたのです。これは本当に自由な人生に招かれたということです。
誇りを失ったのではありません。本当の誇り、決して失われることのないプライドを、神さまが築き上げて下さったのです。それがイエスさまの十字架と復活です。このイエスさまを信じる人生、信頼する人生に招かれたのです。かつては自分で誇りを築かなければならなかったのですが、今はイエスさまがすでに築いてくださった揺るぎない誇りを授けて下さったのです。それがキリスト者です。
真実に信仰に生きているかどうかは、この「自分で築き上げた(と思っている)」プライドが傷つけられるような事態に出会ったときに明らかになります。プライドが傷つけられたと怒りが生まれて来たり、悲しみに沈んでしまうとすれば、結局、誇りが取り除かれていないということですね。それは何よりも自分自身が不自由な生き方の中にあるのだと思います。