静まりの時 ローマ3・21~26
日付:2023年03月27日(月)
しかし今や、律法とは関わりなく、律法と預言者たちの書によって証しされて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることによって、信じるすべての人に与えられる神の義です。そこに差別はありません。
(ローマ3・21、22)
共同訳では以下の通りです。
「しかし今や、律法を離れて、しかも律法と預言者によって証しされて、神の義が現されました。神の義は、イエス・キリストの真実によって、信じる者すべてに現されたのです。そこには何の差別もありません。」(ローマ3・21、22、共同訳2018)
神さまの義が示された、現わされた。神さまがいかに「正しい」お方であるのか、ということが明らかにされた。その明らかにされた「神の義」は、どのようにして明らかにされたのか、示されたのか、現わされたのか。
新改訳のほうでは、「イエス・キリストを信じることによって」、「信じるすべての人に」「与えられる」と訳されています。これに対して共同訳のほうでは、「イエス・キリストの真実によって」、「信じるすべてに」「現わされた」と訳されています。
これはいずれの意味も持っている単語をどのように訳すのかの違いによるものだと思われます。意味としては、新改訳のほうでは、私たちの「信仰」が強調されるのに対して、共同訳のほうでは、ちょっと言葉がおかしいかもしれませんが、イエスさまの「信仰」が強調されることになります。こちらは、キリスト教会のこのしばらくの潮流が背景にあるのかもしれません。
この「信仰」「信じる」ということの意味を考えると、いずれも大切なことではないかと思います。
信じるということは、自分の自律的な行為であって、誰かが代わりにやってくれることではありませんし、自動的に起こる事でもありません。まったき自由の中で、自律した自分という存在が、神さまの前に決意することです。意志をもって決意することです。感情も伴うことですし、知的な理解ということもあるていどは必要となって来るでしょう。そういう、私の行為、という面が、信仰、信じるということにはあります。
しかし同時に、信じるといった場合に、対象が信じるに足る存在であるかどうか、ということが大切なことになるでしょう。信じるに足る存在、すなわち自分自身を委ねてしまえるだけの確かな存在であるのかどうかを判断する、その判断を自分自身がするということに終始するのであれば、その自分自身は、対象、すなわちイエスさまよりも確かな者としていることでしょう。委ねる、ということによる平安は、委ねる対象が私なんかよりも確かなお方でなければ生まれてきません。ですから、信仰が単に知識として知るということ以上のものであるためには、「イエス・キリストの真実」がどの土台になければならないのです。
キリスト教信仰、といった場合、この二つが有機的に一つとなっていることが必要な気がします。有機的に一つとなっているということは、理屈ではなく「からだ」で受け止めているということで、それは限りない謙遜も持って献げられる礼拝において実現することなのだと思います。
昨日は、ライブ配信の音声がハウリングと言いますか、エコーがかかったようなことになってしまっていたようで、たいそう聞き苦しいことになりました。ビデオカメラの音声のボリュームを上げてしまったことによるものだと思われます。私のミスです。すみません。声が音声の部分を修正したものをアップロードしておきました。WEB配信はまだまだ奥が深いです。