静まりの時 ヘブル2・1~4
日付:2023年03月13日(月)
こういうわけで、私たちは聞いたことを、ますますしっかりと心に留め、押し流されないようにしなければなりません。
(ヘブル2・1)
「押し流されないようにしなければなりません」。私たちは、押し流されてしまう者である、押し流されないようにしなけれならない、と聖書は語ります。
何に押し流されてしまうのか。この世に、世の悪に押し流されてしまう、また自分の弱さに、不信仰に、罪に押し流されてしまう、ということでしょう。
押し流されないようにするのは、「しっかしと心に留める」こと。何をしっかりと心に留めるのか。「聞いたこと」をしっかりと心に留めるのです。
「ですから、信仰は聞くことから始まります。聞くことは、キリストについてのことばを通して実現するのです。」(ローマ10・17)
「聞く」ということによって信仰は始まる。そしてその「聞く」ということは、「キリストのことばを通して実現する」のです。共同訳では「聞くことはキリストの言葉によって起こる」。聞くという私の行為も、キリストの「言葉」によって起こる、実現するといいます。
聞く、ということは、簡単なようで簡単なことではありません。私たちはどちらかというと、聞くことよりも話すことの方が好きなのです。聞くということは、私の内に何かの働きを受けることであり、私という存在が、それまでの私ではいられないようにします。話すということは、ただ私の内側を外に出すだけなので、自分を変革する必要がありません。
ですから礼拝では「聞く」ということを大切にします。話すということも大切になっては来るのですが、しかしそれに先立ち「聞く」、神さまに聞く、ということを大切にします。
礼拝のプログラムはことごとく「聞く」ということを大切にするようになっています。黙祷の中で、聞く、のです。賛美も私が歌いたい賛美を歌いのではなく、決められた賛美を歌うのですから、まずは聞くということが起こります。祈りも、司会者の祈りに耳を傾けるのですから、聞く、ということになります。主の祈りを共にささげる時も、私が祈るのではありますが、それが定型文であることから、まず他者の祈りの言葉を聞く、ということになります。交読文も聖書朗読も説教も、聞く、ということなのです。もし聞くということを一切しない、ということであれば礼拝は成り立ちません。礼拝において「私たちは聞いたことを、ますますしっかりと心に留め」させていただいているのです。そうして「押し流されないように」していただいています。
とうことは、礼拝を後回しにすれば、すぐに流されてしまう、ということでしょう。あるいは礼拝を後回しにする、ということ自体がすでに流されている、ということかもしれません。