幸いなことよ 主を恐れ 主の道を歩むすべての人は。

静まりの時 詩篇128・1~8
日付:2023年03月11日(土)

1 幸いなことよ
 主を恐れ 主の道を歩むすべての人は。
(詩篇128・1)

 幸い、幸福とはいったいなんであるのか。人間はそれを知らないのです。人間はそれぞれに、これが幸いである、と自分なりに幸いを考えるのですが、しかしそれが真実の幸いであるのかを知らないのです。ですから幸いとは何であるのかを学ぶ必要があります。
 かといって他人から、これが幸いなのだ、と教えていただいても、ピンとこないことですし、他人の価値観を押し付けられるような気にもなります。自分が幸いと思えないことを、幸いなのだ、と思い込んで生きることもおかしなことです。自分の価値観を押しやって他者との価値観に生きることは、幸福な道をひらくとは思えません。
 「主を恐れること」、そして「主の道を歩むすべての人」、そのような人こそ幸いである、と聖書は語ります。これも結局は他者からの価値観の押し付けのように感じないわけではありませんが、神さまを恐れる、ということは、恐怖で縛られることではなく、畏れること、つまり愛することですから、単純に他者からの押し付けと言い切ることはできません。幸福を求める私が、心からの救いを求めつつ、自らを愛して止まない神さまの愛に出会う、ということです。
 恋愛において考えてみますと、誰かを愛する、ということは、その誰かの価値観を尊重することになるでしょう。それは自分の価値観を否定するのではなく、自分の価値観を大切にしつつ、しかし喜んで相手の価値観を尊重しようとする、ということでしょう。そこに喜びがあるのです。
 主を恐れること。畏れること。それは私の喜びである。そこにまことの幸福が生まれるのだと思います。強制や脅迫されて、神を恐れる、などということがあるとすれば、そこには幸いはありません。
 主を恐れることによって、さまざまな益があり、幸福となる、というのではなく、主を畏れること、そのこと自体が私の幸いである。なぜなら、そこに喜びが生まれるからである、というのだと思います。礼拝に置き換えて考えてみると、礼拝をするという私たちの行為によって、私の人生に幸福の結果がもたらされる、ということではなく、礼拝を献げることそのものが幸いである、礼拝を献げているその瞬間に幸いをあじわっている、という感じです。
 この詩篇は、続いて次のように歌っています。

「あなたがその手で労した実りを食べること それはあなたの幸い あなたへの恵み」。

 神さまを恐れるならば、自分では何一つ労することなくして自動的に実りにあずかることができる、というのではなく、「その手で労した実りを食べること」が私の幸い、恵みである、と歌います。礼拝そのものを喜ぶことは、また人生の節々に至るまで喜びに満たされることです。

 今日は備えの日。明日は主の日です。主を喜びたいと思います。また大きな災害が起こり12年となりました。多くの祈りに合わせてともに祈りたいと思います。