イエスのことは見ています

静まりの時 ヘブル2・5~9
日付:2023年03月14日(火)

神は、万物を人の下に置かれたとき、彼に従わないものを何も残されませんでした。
それなのに、今なお私たちは、すべてのものが人の下に置かれているのを見てはいません。
ただ、御使いよりもわずかの間低くされた方、すなわちイエスのことは見ています。
イエスは死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠を受けられました。
その死は、神の恵みによって、すべての人のために味わわれたものです。
(ヘブル2・8、9)

 万物は、イエスさまの御手の中に置かれました。なので、万物はイエスさまに従うはずです。従わないものは何一つ残されていないはずです。にもかかわらず、私たちは、すべてのものが完全にイエスさまに従っているという姿を見てはいません。
 災害が起こります。病気があります。苦しみがあり、紛争、戦いがあります。神さまがおられるならばなぜこのようなことが起こるのか。神さまが愛をもってすべてをご支配なさっておられるならば、なぜこんなことになってしまうのか。
 聖書はこう語ります。確かに私たちはそのような神さまのご支配を見てはいない。しかし見ているものがある、見せられているものがある、それは、イエスさまの十字架だ、イエスさまは死の苦しみを経験してくださった、それゆえに栄光と誉れの冠を受けられた、その栄光と誉れの冠を授けられたイエスさまを見ている。この死は、神さまの恵みによるものであった、神さまの恵みによって死を味わって下さったのだ、ここに神の恵みが明らかにされたのだ、と。
 ですから教会は十字架と復活を証しします。災害が封じ込まれ、病気がことごとく癒され、すべての問題が解決し、地上から不幸が一切なくなってしまう、ということをは決して否定されるべきことではありません。しかしそのようなことを第一のこと、唯一のこととして語らないのです。地上には災害があり病があり死がある、けれども十字架と復活の主は輝いていてくださる、と教会は証しするのです。

「これらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を得るためです。世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました。」(ヨハネ16・33)