人の子は人々の手に引き渡され、殺される。しかし、殺されて三日後によみがえる

静まりの時 マルコ9・30~32
日付:2023年02月14日(火)

さて、一行はそこを去り、ガリラヤを通って行った。イエスは、人に知られたくないと思われた。それは、イエスが弟子たちに教えて「人の子は人々の手に引き渡され、殺される。しかし、殺されて三日後によみがえる」と言っておられたからである。しかし、弟子たちにはこのことばが理解できなかった。また、イエスに尋ねるのを恐れていた。
(マルコ9・30~32)

 イエスさまは「人に知られたくないと思われた」といいます。聖書はその理由として、弟子たちに教えておられることがあった、それは十字架と復活のことだ、と語ります。ご自分の十字架と復活のことを弟子たちに教えておられたので、ご自分のことを人に知られたくないと思われた、というのです。いったいどういう意味でしょう。
 弟子たちは、不思議だったのではないでしょうか。イエスさまが十字架と復活のことを自分たちに教えておられる、しかし、十字架と復活に向かうご自身のことを、人に知られたくない、と思っておられる。十字架と復活のことが、神の子が地上に降った目的であれば、知らせたいと思うのがふつうではないだろうか、あるいはそのことを知らせるべきではないだろうか、どうして自分たちには教えておきながら、人には知られたくないと思っておられるのか。
 弟子たちは「このことばが理解できなかった」といいます。「このことば」。それは十字架と復活のことでしょう。そのことばが理解できなかった、分からなかった、というのです。これに続く弟子たちの姿を見ると、彼らは誰が一番偉いかを議論していたというのですから、確かに理解できていなかったのでしょう。しかし理解できないならば質問すればよいのだと思いますが、尋ねることも恐れていたと言います。なにやら自分たちの理解を超えたことが語られている、あるいは理解を超えたイエスさまのお姿がそこにあった、というのでしょう。

 イエスさまは「人びとの手に引き渡され、殺される」と言われました。先日の日曜日にマタイの福音書の16章を学んでいましたが、そこには「長老たち、祭司長たち、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され」と書かれていました。それに対してここでは「人々の手に・・・」と書かれています。日本語で「人々」というと、どこか「他者」を思い浮かべてしまいますが、この「人々」という言葉の中には、弟子たちをも含めていると理解していいのではないでしょうか。イエスさまが十字架に架かられることととなる加害者に、弟子である自分たちも含まれる、ということ。そのことを教えておられる。弟子たちは、それを理解する。これが簡単なことではなかったのです。しかしこれが理解できるかどうか、がキリスト信仰に生きるかどうかの分かれ道です。
 誰彼の罪のために、イエスさまは十字架につかれたのではないのです。まさに私のためにイエスさまは十字架についてくださった。自分は神を殺した張本人である、その事を理解したものがキリスト者です。

 このとき弟子たちには理解できませんでした。しかしやがて理解できる時がやって来ます。神さまは時をもご支配なさっておられます。神さまの時がやって来るのです。人間はその時を待ち望まなければなりません。そうであれば、ここで弟子たちが、そして人びとが、十字架と復活を理解のないままに宣伝することは、人間が時を待ち望むということ、を難しくさせてしまうのかもしれません。

「揺り起こしたり、かき立てたりしないでください。愛がそうしたいと思うときまでは。」
(雅歌2・7、3・5、8・4)

 愛そのものであるイエスさまが、そうしたいと願われるときがやって来るのです。

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 愛用しているガラスの急須のふたを不注意で割ってしまいました。なにか替わりになるものがないだろうかと思っていると、妻が茶わん蒸しのふたをしつらえてくれました。ばっちりです。