静まりの時 マルコ9・14~29
日付:2023年02月13日(月)
すると、イエスは言われた。「この種のものは、祈りによらなければ、何によっても追い出すことができません。」
(マルコ9・29)
父は「口をきけなくする霊につかれた息子」をイエスさまのところに連れてきました。あいにくイエスさまは不在で弟子たちしかいません。弟子たちはすでにこのようなケースへの対応を学んでいます(マルコ6・7)。それで弟子たちなりに、霊の追い出し、をしたのでしょう。しかしこのとき弟子たちにはできませんでした。そこにイエスさまが帰ってこられ事の一部始終を知られます。イエスさまは、霊の追い出しをされ、苦しみの中にある父と子を救って下さいました。
イエスさまの弟子たちには、霊を追い出すことが出来ませんでした。その理由を29節で語っておられます。この種のものは、祈りによらなければ、何によっても追い出すことができない、とイエスさまは言われました。
弟子たちは祈らなかったのでしょうか。欄外の中に「断食」と加える異本があると書かれていますので、祈りと断食が必要だったのに、弟子たちは祈りはしたけれども、断食してまでの祈りはしなかった、ということなのでしょうか。
加藤先生のこの個所の説教から引用してみましょう。
「弟子たちはびっくりしたと思います。なぜかと言えば、明らかに弟子たちも祈ったと思います。主イエスが不在であればあるだけ一所懸命に祈ったと思います。祈って癒そうとしたに違いないのです。それは、むしろ当然の常識でしょう。そうとすれば、主は何を言われたのでしょうか。主イエスは『あなたがたの祈りは祈りでなかった』とおっしゃっているのです。私どもも心すべきことであります。祈りは信仰の最高の表現です。しかし私どもはどんなに祈れないことであろうか。しかも、祈れないところにおいても、また祈っているところにおいても、不信仰が現れるとすればどうすればいいのか・・・。」(加藤常昭説教集、『マルコ 2』、ヨルダン社、1993、174頁)。
一所懸命に祈ったはずの弟子たちに、これは祈らないとだめですね、と言われたとすれば、イエスさまなりのユーモアのようにも思えてきます。
私の祈りは祈りになっているだろうか。確かにイエスさまに話しかけています。願いを語ります。しかしそれが本当に祈りになっているだろうか。そんなことを考えさせられます。この父とイエスさまとのやり取りの中に次のような対話があります。
「イエスは父親にお尋ねになった。
『この子にこのようなことが起こるようになってから、どのくらいたちますか。』
父親は答えた。
『幼い時からです。霊は息子を殺そうとして、何度も火の中や水の中に投げ込みました。しかし、おできになるなら、私たちをあわれんでお助けください。』
イエスは言われた。
『できるなら、と言うのですか。信じる者には、どんなことでもできるのです。』
するとすぐに、その子の父親は叫んで言った。
『信じます。不信仰な私をお助けください。』」
信じる者にはどんなことでもできる。もしおできになるなら、などと忖度する必要はない、ただひたすら信じればよい、信じていればよい、信じて委ねて安んじていればよい、と語っていて下さるのだと思います。
そのようなイエスさまの真実の祈りへの招きに父の答えた言葉は、「信じます。不信仰な私をお助けください」と、告白しました。ここに信仰の告白があります。信じます、と告白するのです。しかし自らを不信仰というのです。不信仰である自分が、信じる、と告白をしている。つまり信じるということは、不信仰な私をイエスさまの御手の中にすっかり委ねてしまうことなのだと思います。このように告白する父の中に真実な祈りが生まれているように思います。
祈りは、自分の願望を実現させるための道具ではありません。神さまは私の御用聞きでもないし、使用人でもありません。不信仰な私のいっさいを委ねることのできるお方がイエスさまなのです。そのイエスさまに祈るのですから、もういっさいを明け渡すこと。それが祈りということなのです。
昨日は、主の日、礼拝の日でした。新来会者も加えられ、いつものようによい礼拝の日でした。午後の話し合いの時も励まされるときでした。そのためでしょうか。昨夜はぐっすり眠ることが出来たようです。感謝です。あたたかく穏やかな日が続きましたが、今日からまた少し気温が下がるようですね。ご自愛くださいますように。