静まりの時 2022年10月5日(水)
ピリピ3・12~16
「12 私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕らえようとして追求しているのです。そして、それを得るようにと、キリスト・イエスが私を捕らえてくださったのです。
13 兄弟たち。私は、自分がすでに捕らえたなどと考えてはいません。ただ一つのこと、すなわち、うしろのものを忘れ、前のものに向かって身を伸ばし、
14 キリスト・イエスにあって神が上に召してくださるという、その賞をいただくために、目標を目指して走っているのです。
15 ですから、大人である人はみな、このように考えましょう。もしも、あなたがたが何か違う考え方をしているなら、そのことも神があなたがたに明らかにしてくださいます。
16 ただし、私たちは到達したところを基準にして進むべきです。」
(ピリピ3・12~16、新改訳2017)
パウロは、自分はすでに完全にされているのではない、と語ります。完全に成長しきっている者ではないので、捕らえようとして追求している、日々成長できるように努力、精進している、というのです。そのために、キリスト・イエスが私を捕えてくださった、イエスさまが私を捕えてくださったのは、私が捕らえようとして追求するためである、イエスさまが私を捕えていてくださるので、成長しきっていない私は安心して追求することができる、というのです。
ですから、うしろのものを忘れる、前のものに向かって身を伸ばしている、そうしてキリスト・イエスにあって神が上に召してくださるという、その賞をいただくために、つまり地上だけで完結する賞ではなく、天国に結びつく、つまり永遠の賞をいただくために、走っている、のだとパウロはいいました。
信仰の大人であるならば、みなこのように考えましょう、といいます。信仰の大人であれば、もはや成長しきっていると考えるのが普通かもしれません。しかしパウロは大人であるからこそ、自分はまだ完全ではないという考え方をするのだ、というのです。私はもう完全にされた、何かを追い求める必要はない、信仰者としてもう立派な大人だ、と考えるのは、いまだ子どもであるということですね。
パウロは続いて、もしも、あなたがたが何か違う考え方をしているなら、つまり、パウロの考えに同調できない人がいるとするならば、そのことも神さまはそのようなあなたがたに明らかにしてくださる、といいます。何が何でも私と同じ考え方を持ちなさい、とは言わないのです。そして、それぞれが到達したところに従って進みましょう、それが大切です、といいます。なんと優しい言葉でしょうか。
自分は完全にはされていない、といいつつ、そのような考え方を相手に押しつけて、そのように考えなければならないという態度は、自分を完全としている、ということでしょう。自分は完全にはされていないというのですから、自分の主張は大切にしつつも、それを完全なものとはしない、ということ。それが信仰の大人なのです。少し違う言い方をするならば、信仰の成長とは、まことの人間になっていくということであり、神にならないということなのです。罪びとである人間は、自らを神としているということです。そのような状態から、イエスさまに出会って、日々イエスさまと共に歩む者としていただき、まことの人間になっていく。それがキリスト教信仰の成長であり歩みなのです。
ですから教会において、互いに信仰の励ましとなる言葉を語ることは大切なことなのですが、つねにそれが絶対的なものとしては語られてはいけません。私にとって「良い」と思ったことが必ずしも相手にとって「良い」かどうかは分からないからです。逆に「悪い」と見えたことが、必ずしも「悪い」ことであるかも人間には分からないのです。自分は完全ではないということが分かっているのが、信仰の大人です。もしどうしても何かを語る必要があるならば、つねにそうではない意見を許容する心備えし、自由な雰囲気の中で語らなければなりません。もし人間が自らを完全として語るようなことが起こるとすれば、教会はカルト化してしまうでしょう。
魚を救う猿
「いったい何をしているのかね?」 猿が一匹の魚を水からすくい上げ、木の枝に置くのを見たとき、わたしはこう尋ねました。
「おぼれかけた魚を救っているのです。」 猿はこう答えました。
ある人にとって糧となるものが、他の人にとっては毒となります。(アントニー・デ・メロ、『小鳥の歌』、女子パウロ会、1985年発行、22頁)
魚を救ってやろうと思って、木の枝に乗せてしまうようなことをしてはいないだろうかと振り返ります。自分は完全ではないのだということを思い知らされます。ただ後ろのものを忘れ、ひたすら前のものに向かって進んでいくこと。捕えようと追求すること。イエスさまがすでに完全に捕えていてくださるので、安心して前進すること。それが人間として健やかなことなのです。
春に発芽したお米9粒をバケツで育て、収穫後、乾燥したのですが、数えてみると1058粒ありました。約百倍の実を結びました(笑)。バケツは「良い地」だったでしょうか。