静まりの時 2022年10月4日(火)
ローマ13・11~14
「さらにあなたがたは、今がどのような時であるか知っています。あなたがたが眠りからさめるべき時刻が、もう来ているのです。私たちが信じたときよりも、今は救いがもっと私たちに近づいているのですから。夜は深まり、昼は近づいて来ました。ですから私たちは、闇のわざを脱ぎ捨て、光の武具を身に着けようではありませんか。遊興や泥酔、淫乱や好色、争いやねたみの生活ではなく、昼らしい、品位のある生き方をしようではありませんか。主イエス・キリストを着なさい。欲望を満たそうと、肉に心を用いてはいけません。」
(ローマ13・11~14、新改訳2017)
古代教父アウグスティヌスの回心については、その著『告白』のなかに記されています。
「わたしはこのように訴えて、わたしの心はひどく苦しい悔恨のうちに泣いていた。すると、どうであろう、隣の家から、男の子か女の子か知らないが、子供の声が聞こえた。そして歌うように、『取って読め、取って読め』と何度も繰り返していた。・・・わたしが聖書を開いて最初に目にとまった章を読めという神の命令に他ならないと解釈した。・・・それでわたしは、急いでアリピウスが坐っていた場所に引き帰した。わたしはそこを立ち去るとき、使徒の書をおいておいたのである。わたしはそれを手に取ってみて、最初に目に触れた章をだまって読んだ。『宴楽と泥酔、好色と淫乱、争いと嫉みを捨てても、主イエス・キリストを着るがよい。肉の欲望を充たすことに心を向けてはならない』。わたしはそれから先は読もうとはせず、また読むにはおよばなかった。この節を読み終わると、たちまち平安の光ともいうべきものがわたしの心の中に満ち溢れて、疑惑の闇はすっかり消え失せたからである。」(服部英次郎訳、『告白(上)』、岩波書店、1976年発行、280頁f)
文中の「使徒の書」とはローマ人への手紙のことです。今朝の「聖書愛読」の聖句はアウグスティヌスを回心に導いた言葉ということです。
教会は、神さまの時を知っています。教会に生きる私たちは神さまの時を数えて生きています。主のご再臨を待ち望みつつ、今日の時も、神さまの御手の中にあることを信じています。偶然は一つもなく、すべての時が、神さまの愛の御手に包まれています。「闇のわざを脱ぎ捨て、光の武具を身につけようではありませんか」。「昼らしい、品位のある生き方をしようではありませんか」。
お話ししていましたように9月には二泊三日で教職夫婦のリトリートに出かけたのですが、実は、昨日と一昨日、一泊二日で静まりのリトリートに出かけることになりました。教職夫婦の方は夫婦での参加でしたが、こちらはひとりでの参加です。半年に一度開催される静まりの会でもう数年参加してきたものです。
一泊二日なので簡単な宿泊の準備をして出かけたのですが、翌日用のポロシャツを持参するのを忘れてしまいました。それでちょっと汗づいたポロシャツで翌日も過ごすことになりました。私は平気でしたが、周りの人が少し平気でなかったかもしれません(笑)。
人類はいつから衣類を身に着けるようになったのか。「はじめ人間ギャートルズ」に登場する人類は動物の毛皮を身に着けています。いま放映されている大河ドラマは鎌倉時代ですが、江戸時代とは少し違うデザインの衣装です。洋服と呼ばれるものを身に着けるようになったのは、明治を迎えてからでしょうか。
私は三人兄弟の真中で、姉と弟がいます。幼いころは、姉のおふるを改造したものや、親せきから廻って来たものを着せられたことがありました。どこかしっくりとこない感じでした。自分で衣類を買えるようになると、好みのものを着るようになりますが、自分の好みというのはいったいなんであるのかがわかっていません。テレビに映る人たちにあこがれつつ真似てみても自分に似合うかどうかは別です。みょうちきりんな格好になっていたこともあったと思います。
ファッション性はともかく自分の身体にあった着やすい衣類というものがあります。そういうのに出会うと、いつまでも着ようとするので、擦り切れたり色褪せたりしますが、それでも着ていて不自由に感じません。今日はどんな服装で一日を過ごしましょうか。
「主イエス・キリストを着なさい。欲望を満たそうと、肉に心を用いてはいけません。」
主イエス・キリストを着なさい。文字通り「着る」ということです。イエスさまは、私という存在の「体型」をよくご存じです。サイズの合わないのを無理やりに着せようとはなさいません。イエスさまご自身が、私のサイズに応じて、私をやさしく包み込んでくださいます。
「馬子にも衣裳」ではありませんが、罪びとである私をイエスさまが包み込んでくださると、新しくされた者として生きる道が開かれていきます。
衣類の役目には、着飾ることもありますが、身体を守ることもあります。バイクに乗ると、プロテクターを身に着けることを推奨されます。たとえ転ぶことがあっても身に着けたプロテクターが身体を守ってくれます。バイクの服装には、バイクの操作がしやすいということも大切な条件です。
また結婚式などでの礼服のように、着ることによって、その場にふさわしい雰囲気を生み出すこともあります。礼儀を尽くすこともあるでしょう。あるいは特別な衣類を身に着けることで、覚悟を表わすこともあるでしょう。
私たちは、イエスさまという「一張羅」で人生を生きる者とせられました。何を着ていこうかとあれこれ悩む必要はありません。イエスさまさえ着ていれば今日を喜びと感謝をもって生きていくことができます。暗闇の業から自由にされるのです。
今回の静まりの会では、会場となった施設の司祭さんが講話をしてくださいました。私たちが頼んだからですが・・・。とても深い内容で感謝でした。司祭さんは、修道服を身に着けておられます。茶色のスカプラリオというそうですが・・・。講話の冒頭で、私たちは、これ一枚でいいので便利です、しばらく洗濯しなくても大丈夫ですし、と笑いながら言っておられました。
先週の土曜日は、車で30分ほどの教会に、役員さんたちと一緒に出掛けました。大変貴重なお話を伺うことになりました。内容についてはまた報告がなされると思います。秋晴れのもと、久しぶりにワゴン車が活躍しました。グーグルマップにしたがって行ったのですが、途中かなり細い道を示されることになりました。後ろに一台ついて来たのですが、どうなる事だろうかと不安なことではなかったかと思いました。しかしちゃんと到着したのですね。よかったです。イエスさまはグーグルマップよりも勝るお方ですから(あたりまえですが・・・)、途中どんなに細く見える道であっても、確実に目的の地に向かわせていてくださるのだと思います。感謝です。ちなみに帰りは、大きな道から帰りました。