静まりの時 2022年10月6日(木)
創世記32・22~30
「22 その夜、彼は起き上がり、二人の妻と二人の女奴隷、そして十一人の子どもたちを連れ出し、ヤボクの渡し場を渡った。
23 彼らを連れ出して川を渡らせ、また自分の所有するものも渡らせた。
24 ヤコブが一人だけ後に残ると、ある人が夜明けまで彼と格闘した。
25 その人はヤコブに勝てないのを見てとって、彼のももの関節を打った。ヤコブのももの関節は、その人と格闘しているうちに外れた。
26 すると、その人は言った。「わたしを去らせよ。夜が明けるから。」ヤコブは言った。「私はあなたを去らせません。私を祝福してくださらなければ。」
27 その人は言った。「あなたの名は何というのか。」彼は言った。「ヤコブです。」
28 その人は言った。「あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエルだ。あなたが神と、また人と戦って、勝ったからだ。」
29 ヤコブは願って言った。「どうか、あなたの名を教えてください。」すると、その人は「いったい、なぜ、わたしの名を尋ねるのか」と言って、その場で彼を祝福した。
30 そこでヤコブは、その場所の名をペヌエルと呼んだ。「私は顔と顔を合わせて神を見たのに、私のいのちは救われた」という意味である。
31 彼がペヌエルを通り過ぎたころ、太陽は彼の上に昇ったが、彼はそのもものために足を引きずっていた。
32 こういうわけで、イスラエルの人々は今日まで、ももの関節の上の、腰の筋を食べない。ヤコブが、ももの関節、腰の筋を打たれたからである。」
(創世記32・22~30、新改訳2017)
ヤコブが故郷に戻る途上、ある人、それは神さまご自身でしょう、が、ヤコブと格闘されました。夜、ひとりになったとき、神さまは私たちに対峙され私たちと闘われるお方です。私たちはこのような闘いを経験したことがあるでしょうか。神さまとの格闘を経験したことがあるでしょうか。
「その人」はヤコブに勝てないのを見てとった、といいます。しかしヤコブのももの関節を打つことが出来たのですから、力は明らかに「その人」にあります。しかしその力にまさる方が、ここでヤコブに勝てないのを見てとったというのですから、横綱が子ども相手に相撲をとって、自分が勝てないのを見てとったというようなことでしょう。ヤコブに気迫があったのかもしれませんが、それだけ「その人」がへりくだってきて下さったのではないでしょうか。御子イエスさまのご降誕の出来事のように。また十字架の出来事のように。
ヤコブは、わたしを去らせよ、というその人に向かっていいます。「私はあなたを去らせません。私を祝福してくださらなければ。」 ヤコブの願う祝福とは一体何でしょうか。ヤコブはすでに多くの財産を手にしています。妻も二人、そばめも二人います(多ければいいというものではありませんが)。多くの子どもも与えられました。これ以上どのような祝福を願うのでしょうか。
ヤコブがこれから出会おうとするのは兄エサウです。かつてヤコブは、その兄を出し抜き、父イサクをだまし、卑怯な方法で長子の権利を自らのものとしました。それはヤコブにとっては忘れることのできないことだったでしょう。兄の怒り、恨み、憎しみはいかほどでしょう。どんなに祝福を手にしても、もし愛すべき人との関係に決定的な問題があるならば、その人生にはまだ祝福がないのです。自分の犯した罪が解決されていないならば、たとえ目に見える祝福が豊かに満たされていたとしても、神さまの祝福はまだ実現されていないのです。ヤコブは祈ります。「私はあなたを去らせません。私を祝福してくださらなければ。」
私たちは、自らの犯した罪の解決のために、神さまに祝福を求めたことがあるでしょうか。教会がかたる祝福とはこの祝福のことです。夜、ひとりになったときに神さまは格闘されます。私たちが「私はあなたを去らせません。私を祝福してくださらなければ。」と祈ることを待っていてくださいます。
さてヤコブの求めた祝福の意味はそれだけではありません。そのような個人的なことだけではありません。ヤコブが祝福されていない、ヤコブの罪が解決されていないということは、こののちどのような事態を招くのでしょうか。ヤコブは卑怯な方法であったとはいえ、神さまの祝福を約束された者です。アブラハムに約束された全人類の祝福の担い手です。もしヤコブが祝福されない、ヤコブの罪が解決されないとすれば、すべての民の祝福の道が閉ざされてしまうのです。ヤコブが願う「私はあなたを去らせません。私を祝福してくださらなければ。」は、単に自らの祝福ではなく、全人類のための祈りなのです。私たちはこのような祈りをささげるために、夜、ひとり神さまと格闘しているでしょうか。
かつてこのヤコブの祈りにまさる祈り、そして最大の祈りをささげてくださったお方を私たちは知っています。
「それからイエスは少し進んで行って、ひれ伏して祈られた。『わが父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしが望むようにではなく、あなたが望まれるままに、なさってください。』」(マタイ26・39)
ゲツセマネの祈り。夜、孤独の中で祈られた主イエスさまの祈り。この祈りによって開かれた十字架の道。そして復活の道。私たちは、このお方によって救いにあずかりました。何にもかえがたい祝福をいただいたのです。
(祈り)主イエスさま。夜、ひとりになってあなたからのまことの祝福を願う者としてください。罪を赦してください。すべての人の祝福のために遣わしてください。聖名によって。
秋の空が美しく輝いていました。